「儀式の準備とやらは、どうしたんだい」



 熊のような大男、いや、白い虎人は、森を抜けようとする唯に、気安く声をかけてきた。
 傷はすっかりふさがったようで、それだけに見事な筋肉を際立たせる服にべっとりとついた血のあとが異様だった。



「明日には戻れますよ。どうせ、近くに来てるんでしょう、あなたの雇い主は。ねえ、豊越さん」


「それは俺の口からは言えねぇなぁ、秘主義務って奴だ……といいたいところだが、俺は実際なにも知らないぜ。ヤクザとの借金チャラにして、目標を始末したらさらに金を払うって言われただけだかんな」


「背後関係も調べずに仕事を請けるなんて、プロとして恥ずべきことじゃありませんか」



 唯の凍りつくような気配に、豊越はブルっと震えたが、困ったような顔で言った。



「しかたねぇだろ。借金は先に肩代わりされちまってたし、お前みたいな化け物がいるなんて思いもしなかったんだからよ。金に困るとなんだってやっちまうだろ、普通」


「それを普通にしていたら、命が幾つあっても足りませんよ。今度こういう機会が会ったら、僕も手加減はしませんしね」


「あれで手加減してたのかよ……」


「再生能力の高い虎人には、あのぐらいたいしたダメージじゃないでしょう? あとかたもなく弾けとんだら別でしょうけど。今からでも味わってみますか? 自分の五体が弾けとんだらどうなるか」



 唯は菩薩のような微笑を浮かべた。
 それが、唯の戦闘状態であることを既に知っている豊越は、肩をすくませた。



「おっかねぇガキだよ。お前さんは」


「褒められたと受け取っておきましょう」



 森の奥の崖を器用に駆け下り、さらに広がった森を抜けると、そこには小さな町の明かりが見えた。
 ごく普通の、どこにでもある町の明かりだ。



「こんなにってほど近くはないけどよ、この町の人間も、あの里の連中も、互いに交流がないってのはどういうわけなんだ」


「交流どころか、互いの存在すらしりませんよ。虎人のあなたには効かなかったようですけど、方向感覚を麻痺させる木が、この山には何本も植えられています。迷い込んだら、どこにもたどり着けずに死体になってますよ」


「あの甘ったるい匂いか。じゃあ、お前さんはどうなんだよ。化け物みたいな力を持ってるとはいえ人間だろ」



 唯は小さな香木の欠片を見せた。



「この香木は、木が生み出す麻痺を無効にします。だから一族の一部のものだけは外と行き来ができるんですよ。もっとも、僕には初めからあの木の効力はほとんどないんですけどね」


「わかったような、わからんような」



 唯は元の無表情のまま、目的地に向けて走った。



「あなたまでついてくることはないんですよ」


「莫迦いいやがれ! 契約違反は俺の問題じゃねーか。お前さんとさんと、あのジーさんになんの因縁があるか知らねーが、雇い人にキャンセルを伝えるのは最低限の礼儀ってもんだろ」


「意外に義理堅いんですね。でも、そうでしたら、せめて着替えてきてほしかったんですけど」



 この町は本当に小さな町だ。
 血塗れのTシャツを着た大男など、見られただけで通報されそうだった。



「気にすんなって。田舎は夜も早いからな。こんな夜中に出歩いてる奴なんていやしねーよ」


「それならいいんですけど。邪魔はしないでくださいね」


「ああ、見物人に徹するぜ俺は」






 西院を追われてもう何年になるのか。
 初老の男は忌々しそうに、杯を一気にあおった。
 それでも、次期後見人の小娘さえ始末してしまえば、残っているのは年端もいかない子供だけだ。
 西院の正統な血を引くものは、その子供と、自分と、あの鬼子だけだ。
 自分が追放された原因となった鬼子だが、西院においては、誰よりも優れた行者となるだろう。
 それを知らしめるために西院に送ったのだ。
 鬼子ひとりに西院を渡すはずもないが、その才能を見て、長老会が手放すのを惜しむことは確実だ。
 その時、その後見として父親の自分がたてばいい。
 そんなことを考えていると、急に大きな部屋の明かりが消えた。



「どうしたことだ、これは」



 人を呼ぼうとしたとき、自分の背後に人の気配がすることに気がついた。
 暗闇でも分かる。
 西院の鬼子、唯だった。



「なんの真似だ。お前には西院にいるよう命じたはずだが」


「僕は聞いていませんでしたよ。重さんのことを。ねぇ、お父さん」



 そう唯が呟くと、声を潜めた笑い声が、今度は正面から響いた。



「このオヤジが、お前さんの父親かよ。全然似てねーじゃねーか」


「虎人! なぜ、お前が唯とここにいる! 依頼はどうした?」


「悪いけど、あんたの息子さんの出した条件があまりに魅力的だったんで、キャンセルさせてもらうぜ。ヤクザに払った金を返せなんてみみっちぃことはいわねーよな。俺は一応依頼をこなしには行ったんだぜ。邪魔したのは、あんたの息子だ」



 ぎりぎりと歯軋りをすると、男は吐き捨てた。



「誰が鬼子の父親だ。わしは責任を押し付けられただけだ。今まで育ててやった恩も忘れて何をしでかそうというのだ」



 唯は、ニッコリと笑って、いっそ楽しそうに言った。



「今までありがとうございます、お父さん。いえ、伯父さんでしたか。あなたは西院のためにならない。この辺で退場願います」



 何を言おうとしたのか、唯の胸倉を掴んだ手は、力なく離れ、男は床に倒れた。



「きれいな殺りかたもできるんじゃねーか」


「心臓の血の流れを止めてやれば、それで死に到ります。簡単なものですよ」


「じゃあ、あれか、吹き飛ばすのは趣味か」



 豊越が言うと、唯はほんの少しだけ顔をしかめた。



「報いに値する苦痛を味わってもらうためですよ。このひとは、重さんと僕のためには邪魔な人でしたけど、確かに恩もありましたから、だから楽な死に方をしてもらっただけです」



 死体を残したまま、唯はさっさと外へと向かった。



「じゃあ、僕は西院に戻ります。豊越さんは自由にしてください」



 何事もなかったかのように、軽い足取りで外に向かう唯と、残された死体を交互に見て、豊越は頭を振った。



「おっかねぇ。おっかねぇ」



 儀式の日まで、あと3日だった。








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