「ねえさまに何するんだ!」
重の首を絞めている久恵に、朔夜は体当たりした。
もつれる様に三人は転がったが、久恵は飾り紐から手を離そうとはしなかった。
咳き込みながらも、ようやく抵抗らしい素振りを見せた重だったが、その力は弱弱しい。
這い蹲り、なんとか久恵の手から逃れようとしても、すぐに紐に力を入れられ連れ戻される。
それを止めようと、朔夜が必死で久恵の腕に噛み付いたり、体当たりを繰り返したりしたが、久恵の手は止まらなかった。
「重さん、あなたは綺麗なまま息絶えるの。あなたが西院の掟のために汚れるなんて許さない」
夢見るように久恵は呟いた。
その手を、誰かがそっと掴んだ。
力を込められたわけでもないのに、久恵の手は急に固まったように動かなくなった。
「重さんは汚れたりしませんよ。重さんは今までの西院の女の人とは違うんです。あなたにだって本当は分かっているのでしょう?」
表情の無い人形のように静かに語ったのは唯だった。
「あなたには、わからないは。いえ、西院の男に家畜として扱われる女の想い等わかるはずもないのよ」
久恵は唯を殺意を込めて睨んだ。
「僕は西院の男じゃありませんよ。もともと、西院であったことなど僕には無い。ただ、己の業の始まった場所を、知りたかっただけでした。でも、考えが変わりました。僕は西院の男ではないけれど、その資格は持っている。重さん、儀式の相手に、僕を選んではくれませんか」
「だめだ! お前なんかに、ねえさまを触れさせたりするもんか!」
朔夜はそう叫ぶと重にしがみついた。
それは、姉を取られそうになった弟の嫉妬というよりも、幼くとも女を奪われそうになった男の顔だった。
「選ぶのは重さんです。早く大人になりなさい朔夜くん。今のキミには、なんの力も無い。姉上を守りたかったら、朔夜くん自身が強くなるしかないんですよ」
「ねえさま、ねえさまはこいつを選んだりしないよね?」
縋りつくように、苦しそうな姉の顔を見上げた朔夜は、姉の視線を見ただけで敗北を知った。
首を絞められたせいではなく、重の頬は上気していた。
朔夜の最愛の姉の視線は、唯だけを見ていた。
「あなたがいいわ。いえ、あなたじゃないと嫌」
「駄目よ、重さん! あなたの命を狙ったのは、この男の父親としか考えられないわ。そんな相手を儀式の相手に選ぶなんて!」
「それが、本当でも私はかまわないわ。私はこの人が欲しい。それだけよ」
絶望的な眼差しで、久恵は重を見つめた。
握っていた紐は、力を失った手から落ちていった。
「私は、重さんが私のような西院の女になる姿を見たくないわ」
「僕は重さんを汚したりしませんよ。そして、重さんはあなたのようには絶対にならない。重さんには、守りたいものがあるんですから」
「そう。そうね。重さんはきっと綺麗なままだわ」
なら、もう私はいらないわねと呟くと、久恵はその場に崩れ落ちた。
「……なぜ、久恵が死ぬの」
眠るような久恵の口元から、血が一筋流れ出ていた。
「毒を飲んでいたんですね。最初から、あなたを殺した後に死ぬつもりだったんでしょう」
「わからないわ」
「久恵さんは、あなたを愛していたんですよ。だから、あなたの儀式を止めたかった」
「私には、わからない」
「それでいいんですよ。わかってもらいたいとは、彼女も思っていなかったはずです。これからあなたは、久恵さんがあなたたち二人を守っていた西院の掟に立ち向かっていかなくてはならない。西院の中でどう生きていくか、それをあなたたちは覚悟しなくてはならないのだから」
魂が抜けたように、力なく自分に寄り掛かる弟を抱きしめて、重は言った。
「私はあなたを信じないわ」
重はわずかに唇を笑いの形に持ち上げた。
「でも、あなたが欲しいの。それが一瞬でも」
挑戦するように、強い瞳で重は唯を見つめた。
「言われるまでも無く、私は朔夜と西院を守って見せる。でも、儀式の相手はあなたに決めたわ。これが私の西院に対する決意の表し方よ」
そして、初めて気がついたように、不審な顔をした。
「あの化け物はどうなったの?」
「条件付で帰ってもらいました。もう彼が西院に現れることはありませんよ」
「条件とは?」
「それは、僕の事情です。あなたたちには迷惑はかけませんよ」
それ以上、重は唯を問い詰めようとはしなかった。
「じゃあ、儀式の日まで、掟どおりに潔斎させていただきますので、しばらくお別れですね」
「そうね。では、儀式の日に会いましょう」
名残惜しそうな素振りさえ、ふたりとも互いに見せたりはしなかった。
だが、唯が部屋を後にした時、重は久恵の閉じた瞼と唇に手を寄せた。
そして、唯が握った手を同じように握ると、ほんの少し涙を流した。
何が哀しいのか、重にもわからなかった。
呆然としていた朔夜は、姉の動作をぼんやりと眺めると、一言だけ言葉を口にした。
「ねえさまは、ぼくが好き?」
重はとても哀しかった。
朔夜の言葉までが、とても哀しくて、涙の量が少しだけ増えた。
「朔夜以上に大切な相手なんていないわよ」
それは、嘘ではなかったけれど、どこか本当とも言えなくなっていた。
それをふたりともわかっていた。
久恵の死体の側で、ふたりはもう戻れないことに涙を流した。
静かに流れる重の涙も、大きな目に溜められた朔夜の涙も、互いの想いを共有するものではなくなっていた。
何が一番哀しいのか、分からぬままに二人は泣いた。
儀式の日まで、あと数日を残すのみだった。