「坊やは最高に刺激的だぜ」



 互いに隙を見せぬように対峙しながら、唯と豊越は穏やかに会話を楽しんでいるようだった。
 唯には、切れるような鋭さがあったが、豊越は本当に楽しそうに話している。
 それは肉食獣の笑みには違いなかったが、飢えた危険なものには見えなかった。
 しかし、しまわれた熱い肉の凶器は、なおも天をついてズボンを高々と押し上げている。
 豊越が強い興奮状態にある証だった。



「坊やの知りたいことは俺は何一つしらねーよ。ただ、俺はあのお嬢ちゃんを喰う必要があるんだよ。それを邪魔するってんなら答えはひとつだろ」


「ええ、そのようですね」



 笑顔のまま、二人は身構えた。



「さあ、殺しあおうぜ」



 豊越の2メートルを越える巨体が、さらに膨らんだように見えた。
 ざわざわと音を立てて、その強い体毛が、滑らかな白い毛となり全身を包んでいく。
 両手からは、鋭い爪が、大きく裂けた口には二本の牙が、それは、どこから見ても、巨大な二本足の白虎の姿だった。



「白い虎人……その姿を見て生きて帰った者はいないという噂の始末屋でしたね」


「おどれーたな。キレイな面して、本当にこっち側の人間かよ」



 くぐもった声で話しながらも、豊越の大きな爪が唯の頬を抉った。
 しかし、次の瞬間、唯は豊越の背後から、微かにその太い首筋に手を当てた。
 その途端、短く太い白い毛が密集した首筋から、盛大に地飛沫が吹き出した。
 だが、噴出した血はすぐ止まり、そのままの勢いで豊越は唯の喉元に噛み付こうとした。
 その攻撃を風のように受け流した唯は、二、三度瞬きすると、黒い毛の混じった左の胸元を軽く押した。
 バクッと大きな音を立てて、豊越の胸が陥没し、背中まで突き抜けた。



「残念だったな。俺の心臓はそこにはねーよ」



 口からゴボっと音を立てて血を吐き出すと、豊越は立ったまま唯を見た。
 勝てる相手ではないと、豊越にも分かっていたのだろう。
 それでも唯に向かっていったのは、依頼のためか、それとも男の意地だったのだろうか。
 再生が始まった胸の肉が蠢いている。
 それを唯は冷たく笑いながら見ていた。



「あなたの身体は、一度触れればすべて判りました。もちろん心臓の位置も」



 菩薩の笑顔は、この状況では恐怖さえ覚えるほど鮮やかに残酷だった。



「あなたを殺す必要は僕にはありません。もちろん、殺してもいいんですよ。でも、僕の話は、あなたには悪い話じゃないと思いますね」


「天使みてーな顔しやがって。悪魔の誘いだな」


「聞いてみてからでも、もう一度殺しあうのはいいんじゃないですか。もっとも、次は心臓を破裂させてもらいますけど」


 唯は豊越に向かって、にっこりと微笑んだ。






 濡れた肌襦袢を身に纏っただけの姿の重と、その身体を支えるというより、逆にしがみつく様な様子の朔夜は、やっとのことで屋形にたどり着いた。
 自分が殺されそうになったばかりだというのに、重の胸には唯のことしかなかった。
 あの獣ののような男を相手に、唯に何ができるというのだろうか。
 自分を救ってくれた唯の不思議な力は、重の脳裏には残っていない。
 ただ、野生の熊よりも大きく恐ろしい獣の姿と、自分とさほど変わらない華奢な唯の姿が交錯して、重はすぐにでも滝へと戻りたかった。
 それができないのは、次期宗主の姉としての誇りと、自分に必死でしがみつく弟への愛しさのためだ。
 幼い弟を残して死ぬことは、自分には許されていないと、重には分かりすぎるほどわかっていた。
 個人の感情で動くことなど、いずれ朔夜の後見となる自分にはあってはならないことなのだ。
 恋という言葉を、重は意味のある言葉として知らなかった。
 だが、今はよくわかっている。
 朔夜や亡き父への想いとは違う。
 狂おしいまでに、唯のことしか考えられない。
 その安否を思うだけで涙が伝ってくる。
 これが、きっと恋というのだろう。
 重はそう思って、拳を握った。
 なんと自分は無力なのか。
 滴り落ちる水と区別がつかない涙は、それでも重の美しさを損ないはしなかった。



「……ねえさま。帰ってやすもう」



 朔夜は今までのように甘えた口調ではなく、まるで大人の男のように重を促した。
 それは、もう姉が自分だけのものではないことを知った、幼くとも紛れもない男の顔だった。
 そのことにも気がつかず、言われるままに重は屋形へと入っていった。
 心は唯の下に残したまま。



「ひどい格好ね、重さん」



 久恵はさも汚らわしいと言った顔つきで重に声をかけた。
 威嚇するような朔夜の視線は歯牙にもかけていない。
 普段なら反抗するはずの重だったが、今はそれに対応するだけの気力も残ってはいなかった。



「着替えを手伝うわ。朔夜さんは母屋の方にお戻りなさいな。女の仕度をのぞくものではないわよ」


「ねえさまは、知らない男に殺されそうになったんだ。久恵は何か知ってるんじゃないの?」


「私が? それが事実なら長老会に話をするけど、今はまず着替えが先よ」



 言われるままに重は久恵に連れられて衣裳部屋へとふらつきながら歩いていった。
 その姿を、じっとみつめる朔夜の視線にも気づかずに。






 濡れた身体を丁寧に拭くと、久恵は重の着付けをはじめた。
 新しい肌襦袢を着せて、長襦袢の上に真っ青な正絹の生地に赤い牡丹の柄の振袖を羽織らせる。
 青褪めた顔色にもかかわらず、その艶やかな衣装は重によく似合っていた。
 振袖を着付けて、金茶の帯を花の形に整えると、久恵は朱色の飾り紐を手に取った。



「重さんは、本当に綺麗ね」



 重には、久恵の言葉さえ遠く聞こえているようだった。
 愛しいものを可愛がるように、久恵は重のわずかに濡れた髪をなでた。



「西院で唯一、穢れなき存在だわ。そう、あなたは西院にいるべきじゃないのよ」



 そう言うと、久恵は重の首を、飾り紐で一気に絞めた。
 悲鳴は、上がらなかった。






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