重は屋形の裏の森の奥深くにある、滝を目指した。
感覚を無にするための修行のひとつとして使われている場所だ。
滝の側の大きな岩に手早く着物を脱ぎ捨てると、重は肌襦袢のままで滝の中に進んだ。
水が冷たい。
冬も近い滝の水は、重の体温を奪い、凍えるように身体が冷え切っていった。
なのに、ただひとりの面影が浮かぶだけで、頭の芯がしびれ、燃えるように熱く火照ってくるようだった。
(……唯)
その名を心の中で呟くと、重は握り締めた親指の爪を、人差し指に強く突き刺した。
血が滲んで水に流されていくことも気にせず、さらに指に力を込めた。
自分に何がおきたのか、重にはまったく理解できなかった。
会ったばかりの鬼子の顔が頭から離れない。
気がつけば、唯のことばかり考えている自分が信じられなくて、重は滝に打たれ続けた。
己の成人の儀式を前に、些細なことで動揺している自分を重は恥じた。
近親相姦によって生まれた鬼子は、母親の命を喰らって生まれてくるという。
唯の母はである重の叔母は、唯を産んだ後も生きていたようだが、結局は唯のために自害したのだ。
忌むべき子供の噂は、重も何度も聞いたことはあったが、どんな人間かなど、一度も考えたことはなかった。
もし想像したことがあったとしても、あんな笑顔を思い浮かべることはできなかっただろう。
笑顔を向けられた瞬間、心臓が飛び跳ねた。
唯は誰にも似ていない。
ただそれだけのことで、どうしてこんなにも泣きたくなるのだろう。
久恵に対して、重は敵意と嫌悪感を長い間抱いていたが、唯に触れる手や、男を誘う声を唯に向けている姿に、それは一気に憎悪にまで高まった。
あの女を殺してやりたい。
父である宗主に抱かれて優越感に満ちた笑みを見せつけられたときでさえ、嫉妬はあっても殺意を持ったことなどなかったというのに。
(どうして)
乱れた心が集中の邪魔をして、滝の中で重はバランスを崩した。
水圧が身体を弾き、そのまま側にある岩に叩きつけられそうになったが、覚悟した痛みも衝撃も、重を襲ってはこなかった。
「これは、もうけたかもな」
聞き覚えのない野太い声を聞くまで、重は自分が誰かに抱きかかえられていることにも気がつかなかった。
その相手を確かめようとした次の瞬間、重はより強い力で水の中に押し付けられた。
姉の後をつけていた朔夜は、重の身体が崩れ落ちるのを、何もできずにただ見ていることしかできなかった。
声を上げることもできず、ただ岩陰に隠れて、塩の柱のように固まっていた。
(ねえさま!)
心の中の悲鳴は、誰に届くはずもない。
その時、滝の中で倒れた姉を支えたのは、人とは思えぬほど大きな男の姿だった。
身体が巨大なだけではない。
水に濡れた身体からは獣じみた印象があり、顔は獣以上に凶悪だった。
とても姉が助かったとは思えなかった朔夜だったが、それがやはり救いの手ではなかったことが、重の悲鳴が証明した。
化け物のような男は、滝壷に姉の身体を叩きつけると、浮かび上がろうと暴れる重の首を無造作に掴み、再び水の中に沈めようとしている。
(ねえさまが、ねえさまが死んじゃうっ!)
飛び出そうとして、朔夜は我に返った。
幼くとも朔夜は西院の次期宗主だ。
己の力量ぐらいわきまえている。
自分では、あの化け物に立ち向かうことはできない。
ならばどうするか。
泣いている暇も、迷っている余裕もなかった。
(だれか、だれか、だれか―――――――――)
誰でもいいから、ねえさまを助けてと思いながら、頭に浮かんだのはひとりの少年の影だった。
自分から最愛の姉を奪うかもしれない男に助けを求めるために、朔夜は必死で屋形に向かって走った。