時間は少しばかり遡る。


 重は迷っていた。
 本来なら口を利くのも汚らわしいはずの、あの少年と話がしてみたかったのだ。
 鬼子とは、兄妹や親子など、近すぎる近親の間に生まれた子供のことだ。
 西院では、近親相姦自体は罪でもなんでもなく、最初の手ほどきをするのは近親者であることが普通だったが、その間に生まれた子供は徹底的に禁忌とされた。
 身ごもったと知れたなら、母体のために生ませてから間引くのが普通だ。
 堕胎をするよりは、その方が母体には害がない。
 重にはそれが殺人であるという感覚はない。
 西院のほとんどの人間がそうだろう。
 鬼子は間引かなくてはならない掟の中、唯が生き延びたは、その才が生まれながらに判るほど優れていたこと、母親である父の妹が子供を守るために自害したせいだと聞いていた。
 重には彼女の気持ちが理解できなかった。
 我が子であれど、鬼子は鬼子だ。
 子供は父親である伯父と共に西院を追放されたとも聞いている。
 その鬼子が戻ってきたということは、長老たちは伯父の追放を解くつもりなのだろうか。
 次期宗主の姉たる自分にも知らせずに。
 そんなことが許せるはずもない。
 あの少年に、直接確かめなければならないと重は強く決意した。
 本当は、ただ理由もなく彼に会いたかっただけなのだと、そんなことには重は気がつかなかった。
 気付いてはならなかったのだ。


 唯に与えられた部屋の前で、重は久恵の声を聞いた。


(また、あの女)


 勝手な真似をと思ったが、つい聞き耳を立ててしまう。
 二人の会話に興味を抑えられなかった。


『勝負を受けてもらうわよ。西院を名乗ることが許されないほどの天性の力というものを、宗主後見代行として確認させていただくわ』


『少し唐突だと思いませんか』


『あら、危険を自ら確かめるのは、代行の義務であり――権利じゃない?』


 権利という言葉に、重はカッとなったが、今この場で踏み込むことはできなかった。
 唇をかみ締めながら、聞こえてくる声を聞くことしかできない。


『敬意に値するご意見ですが、時と場合によりますね。つまり、僕の意思は考慮されないということでしょうか』


『考慮―――?』


 とても面白いことを聞いたように、久恵の身を捩るような笑い声が聞こえた。


『する必要があるのかしら? あなたは私に買われたのよ。今更でしょう』


(買われた?)


 重には言葉の意味が判らなかった。
 知らない言葉に、重は耳をそばだてた。


『せめてその手を弛めるだけでもしていただけると嬉しいんですが、飾紐なんかで縛らなくても僕は逃げませんよ……それこそ今更ですしね―――それとも、こういうのがあなたの趣味ですか』


 好奇心を抑えきれず、重は障子をほんの少しだけ開けて中の様子をうかがった。
 その目に入った光景は、あまりに淫靡なものだった。


 鮮やかな緑色の組紐が、唯の細い首に巻きついていた。
 唯も、その上に跨っている久恵も全裸で、紐の先は当然のように久恵の白い手が握っている。
 重はその姿を美しいと感じたことにショックを受けた。
 飾紐で繋がれた二つの裸体は、絡み合うことが当然のように自然で美しく、そして淫らだった。


『素直なのは嫌いじゃないけど、面白くもないわね』


 紐の両端を久恵は軽く引くと、笑いながら唯のあごに舌を這わせた。
 軟体動物のようにヌメヌメと動く舌が紐にぶつかると、クツクツと低く笑う。その姿さえ重ねには汚らわしさより美を感じた。
 屈辱と何かわからない感覚で、重の身体は熱くなった。
 それが嫉妬と欲情であることを、まだ重は気がついていなかった。
 閉鎖された空間で、歪んだ教育を受けてきた重には、恋愛感情というものが理解できない。
 西院にはそんなものは必要ないのだ。
 結婚という体裁も、宗主のみが行うことで、重には自分がいつか誰かと婚儀をあげるという可能性すら考えたことはなかった。
 そして、閨房の術を秘術とする西院の中で天才と呼ばれながら、重はまだ男を知らなかった。
 重が天才といわれる所以と、唯の本当の才能はほぼ同じものだった。
 それをまだ誰も知らなかったが、重は男と直接交わらずとも、その視線と蜜のような甘い体臭だけで、異性を欲情させ、同時に意のままに操ることができるのだ。
 それは術というより体質と呼ぶべきだが、生まれもってそれができるということは、例え西院が伝える房中術を教わることがないとしても、西院の目的とするもののためになんの支障もないのだ。
 それゆえに重は天才と呼ばれる。
 西院の女に生まれた以上、重にとっては意味のない、いや、かえって不幸の原因となる才能であることを、まだ重は知らない。


『目立たないけど、あるのねぇ』


 なんのことかと思ったが、久恵がなでている唯の喉元を見て、喉仏のことだとわかったが、性差を感じさせない人形のように無機質な唯にも喉仏があるのは、なにか不思議に感じた。
 久恵も同じように思ったらしく、さらに笑っている。
 その笑い声を聞くと、重は吐き気さえこみ上げてきた。
 久恵が笑うたびに紐が強く引かれたが、ほんのわずかにも唯の表情が歪むことはなかった。
 そのことに、何故か重は安堵し、安堵したことに不快感を覚えた。


『意地なのかしら。だとしたらつまらないわよ、子供のよう』


『かもしれません……でも、あなたには関係ありません』


『子供は……嫌いじゃないわ。でも、あなたのこれは仕事でしょう? 貰ったお金の分は働きなさい。それがプロというものよ』


 プロとはなんだろう。
 生涯西院の外に出ることもないのに、何故か重は語学の勉強を父から受けていたが、俗語や和製英語の知識はまったくなかったため、プロフェッショナルという単語と結びつかなかった。
 それに、あんな真剣な表情の久恵を見たことなど、重は一度もなかった。
 いつも小ばかにするように自分を見下す久恵しか、重は知らない。
 唯は、そんな久恵を見上げると、困ったような曖昧な笑顔を作った。
 ほとんど表情は変わっていないが、唇が少しだけ歪んだようにつりあがっていた。
 目に映る変化はそれだけなのに、唯は真剣に困惑しているように重には見えた。


『外のひとのようなことを言うんですね』


 久恵の顔が一瞬凍りついたように見えた。


『……外に出たことは……ないわ……』


 力のない声だった。
 今まで聞いたことのない、諦めたような呟き。


『でも、あなたは外を知っている』


 それは不思議ではないと重は考えた。
 外の存在を知らされるのは、長老と宗主のみ。
 現在次期宗主後見の代理である久恵が外を知っていてもおかしくはない。だが、唯の言い方では、それがおかしいことだと言っているように聞こえた。


『わかりました。あなたが払ったお金は僕が受け取ったわけではありませんが、売られた僕にはあなたが支払った代金分の見返りを与える義務がある……そういうことですね』


『そのしゃべり方、なんとかならないの』


『癖ですので。気に入りませんか』


 ため息をついて、久恵は軽く頭を振った。握った紐は離さなかった。


『調子が狂うのよ。子供のようで子供じゃない外見に似合いすぎよ。でも、止める気はないのよね?』


『癖は無理には変えられません』


『もういいわ』


 唯の言葉を、久恵は唇で吸い取った。
 深い口付けに、重は目を見開いたまま凍りついた。
 身体がガクガクと震える。
 こんな胸の痛みを、熱さを、一度だって感じたことはない。
 父の側にはべる久恵の姿を見たときでさえ、怒りを覚えても、こんな締め付けられるような苦しみを感じたことはなかったというのに。
 その場に崩れ落ちそうになった重が視線を上げると、唯と目が合った。
 唯は真っ直ぐに重を見ると、ふんわりと笑った。
 それは、間違いなく重に向けられた笑みだった。


『どうかしたの?』


『いえ、なんでもありませんよ』


 重は、その場から、静かに、だが素早く離れ、素足のまま外に飛び出していった。








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