風が澱んでいる。



 いつものように、どこか生臭いべたついた風が、今日は森の木々に絡めとられたように静かだった。
 森の外に何があるのか、重は知らない。
 知りたいと思ったこともなかったが、その日は妙に胸がざわめいてしかたがなかった。



「どうかしたの? ねえさま」



 小首をかしげる弟の朔夜を安心させるために、重はなんでもないと笑って見せた。
 今年で10歳になったばかりの朔夜は、神経質で臆病な子供で、姉の重の後を追ってばかりいた。
 生まれ持った性質とはいえ、繊細な弟の行く末を思うと、不安でならない。
 容姿だけを見るならば、母親ゆずりの美貌のよく似た姉弟だったが、内に秘めた魂の違いが、面にも表れるのか、一見すると血が繋がってるとは思えないほど、この姉弟は似通ったところがなかった。
 同じ鳥でも猛禽類と小鳥ほどに、姉と弟は異なって見えた。
 だが、この産毛すら生え揃っていないような幼い弟こそが、この西院の次期宗主となるただひとりの男児なのだ。
 前宗主であった父も、その伴侶たる母も既に亡くなり、この2年ばかりは、宗主の妾の第一位にいた女が一族を取り仕切っている。
 表向きは次期宗主の襲名が済むまで、一族の合議となっているが、実際はあの女の言うがままの状態であることを、重はよくわかっていた。



「これから、煩わしい雑事は、わたしがすべてみますから、重さんは何も心配しなくていいのよ」



 二年前、父の葬儀の後に、あの女は重にそう告げて嘲笑った。
 あの時の、凍えるように冷たい身体とは反対に、焼け付くような胸の痛みを、重は決して忘れはしない。
 幼くとも、重は西院本家宗主の娘だった。
 妾ごときに侮られる覚えはない。
 たとえ、その憎い女がいなくては、西院が立ち行かないことを承知していても、誇りだけは捨てるわけにはいかなかった。
 生まれたときから、重は天才と言われてきた。
 天賦の才を持つものとして、重以上に相応しいものはいなかったであろう。
 己が授かった才能の本当の意味を、重はまだ知らない。
 それでも、己が特別な子供なのだという自負は、周囲の扱いや言葉によって、重の心に深く刻まれていた。
 重が男だったならば、西院初代宗主にも劣らない行者となっていただろうが、西院において女に継承権はない。
 与えようがないともいえる。
 西院が伝えなくてはならないのは技であり、才ではない。
 その西院が伝える秘術は男だけに伝えられるものであり、女では意味がないのだ。
 陰陽は表裏一体。
 光と影は対であり、男と女もまた対である。
 かつては女だけが継承する東院という一族が存在し、西院とは対となる技を受け継いでいたが、一族自身もその技も、もはや失われて久しいという。
 失われた東院が未だ存在したなら、重が宗主となることに不足はまったくなかっただろう。
 女である身が口惜しかった。
 天才と、もてはやされていただけに、やり切れない思いが消せなかった。
 男に生まれたかったわけではなかった。
 ただ、自分の才に意味がないことが悔しかった。
 そんな自分の身の上よりも、弟のことが不憫でならないと重は思う。
 朔夜に西院の宗主の座は重過ぎると、重は思っていた。
 気の弱さを除けば、朔夜は普通の子供として成長している。
 そう。普通の子供。
 とても、宗主としての器が弟にあるとは信じられない。
 行者見習いの子供たちの方が、まだ西院の男の匂いをさせているだろう。
 朔夜はどうみても、下働きや、西院の技を受け継がない行者以外の子供たちのように見えた。
 朔夜とて修行はしているのだろうが、行者たちの修行を重は知らない。
 もうすぐ15になる今でも初潮のない彼女は、修行に加わることを許されていなかった。
 女は初潮が始まれば修行に加わる。
 男の修行年齢はまちまちで、早いもので7歳、遅くとも11歳までには技の伝授が行われる。
 朔夜の修行が始まったのは半年前だ。



「ねえさまってばぁ」



 甘えたように着物の袖を握りしめる朔夜のまぶたに、重はそっと口付けた。



「朔夜が心配することなんて、何もないのよ」



 15の誕生日に、重は試しの儀式を受けなくてはならない。
 初潮のない女もこの歳になれば成人とみなされ、修行に参加できることを皆の前で証明しなくてはならないのだ。
 継承権をもたなくとも、前宗主の娘である彼女の儀式は誰にとっても特別なものだった。
 この儀式を無事やりとおせれば、重には正式に朔夜の後見人としての資格が与えられる。
 そうすれば、もうあの女の庇護下に居る必要もなくなるのだ。



「心配ってなにがさ」



「姉さまにまかせておけば大丈夫ってことよ」



 弟を守らねばと思うあまり、かえって朔夜を弱くしてしまったのかもしれないと思うこともあったが、どうしても弟には甘くなってしまう。
 この脆弱さで15歳の成人の儀式を、西院の男としての試しを受けられのだろうかと心配でならなかった。
 女たちと違い、西院の男が受ける試練は厳しいものだと聞いている。
 朔夜が成人するまであと5年、それまで弟を守り抜くためにも、今度の儀式は成功させなくてはならなかった。
 それなのに、肝心の相方がまだ決まっていない。
 本来ならば、父である前宗主が契りの相方のはずだったが、宗主が亡くなったために、重は新たな相方を選ばなくてはならなかった。
 成人前の幼い弟を選ぶことはできないのだから、一族の行者の中から適当な人間を選ばなくてならない。
 わかっていても、重には難しい選択だった。
 本来西院の女に相手を選ぶ選択権はない。
 男と肌を合わせることに嫌悪感を持つなど、西院の女にはあってはならないことだった。
 それはわかっているが、父以外の男に肌をさらし、この身を自由にさせるなど、考えただけで吐き気がこみ上げてきそうだった。
 ずっと天才だと言われてきたのに、自分はどこかがおかしいのではないだろうか。
 重は密かに自分の異常さを恐れていた。
 自分だから相手を選ぶ我侭が許されているのだ。
 これ以上、儀式を引き伸ばすことはできなかった。
 次の満月までに相手を選ばなくてはならない。



「必ず、姉さまが朔夜を守ってあげるから」



「うん。ぼくもねえさまを守るからね。ホントだよ」



「ありがとう朔夜。でも、返事ははいでしょう」



「は〜い」



「伸ばさなくてもいいの!」



「ねえさま、さいきんうるさすぎだよね」



「朔夜」



「はい」



 甘えた態度を朔夜が見せるのは、重に対してだけだと知っているから、ついつい甘くなってしまう。
 両親が生きていた頃から、大人の顔色を伺って、神経質そうに怯えている子供だった朔夜をどうすればいいのか、無邪気な弟に笑顔を向けながら、重は途方にくれていた。



「あら、仲がよろしいこと」



「……盗み聞きは、趣味がいいとは言えないわね。久恵さん」



「そんなに毛を逆立てなくてもいいのに。母親なんだから……ねぇ、あなたもそう思わない?」



「あなたがいつ、私たちの母になったというの! 身の程を知りなさい!」



 カッとなって重は叫んだが、宗主の妾から西院の女帝として君臨している女は、重よりいくつか年上に見える少年にしな垂れかかっていた。
 豊満な白く熟れた肉体を、奔放に渦巻いた滝のような巻き毛が包んでいた。
 この女は着物を着ようとせず、いつも身体の線をぴっちりと見せる奇妙な服ばかりを身に着けていて、今日の服などは、重から見れば裸も同然なほど布の少ない服だった。
 服といえば着物の西院では、久恵の服装はあまりに異質だ。
 だが、久恵が寄りかかっている少年の服装も、重がはじめて見るかっこうだった。
 それはただの黒の学生服だったが、西院以外を知らない重には異様に見えた。
 屈辱以上に、少年への好奇心をおぼえて、重は少年を見つめた。



「……あなた……誰?」



 こんな顔は見たことがない。
 それはあり得ないことだった。
 西院の人間で、重が知らない顔などない。
 全員の名前を覚えているわけではないが、知らない顔などあるはずがなかった。
 西院を出て行くものはあっても、入ってくるものはいない。
 いてもそれはごく少数で、そのすべてと重は対面している。
 そして、入ってくるのは女だけだ。
 穏やかで茫洋とした顔は、醜くも美しくもない。平凡というより特徴がなかった。
 人目をひくようにも見えないのに、どこか目を離すことができないような、不思議な吸引力のある少年だ。



「あなたたちの従兄よ」



 何を言われているのかわからなかった。
 両親を失った今では、重たちに血縁といえるものは存在しない。



「重さんも案外ひどいのね。いるでしょ、あなたにも叔父さんが」



「まさか、18年前に放逐されたという……じゃあ?」



「そっ、あの噂の鬼っ子よ」



 禁忌を犯した結果生まれた鬼子の話は重も聞いていた。そのために西院を追放された父の弟のことも。



「そんなものが、何故この屋敷に、私の前にいるというの!」



「あらひどい。合議で決定したからよ。決まってるでしょう」



「合議? あなたの独断ではないの」



「成人の儀が終わるまで、ここの筆頭は私なのよ、お嬢様?」



 挑戦的な嘲笑は、それでも美しかった。
 蛇のような女だと重は思った。
 どこか爬虫類や食虫花を思わせる久恵の視線だが、それでも彼女がきわめて美しいことに変わりはなかった。



「それもあと一月もないわ」



 震える指を抑えながら、重は朔夜を後ろに庇った。
 久恵に対する強烈な敵意を持つ重ですら、気がつけば久恵を陶然と見つめてしまう。
 同性すら惑わせる、トロリと滲み出るような色香が久恵にはあった。
 重が一番怖れているのは、朔夜が久恵に絡めとられてしまうことだった。



「あら強気ね。でもそれも、儀式が無事済めばのおはなし」



 前宗主が久恵を愛人に選んだのは、気まぐれではなかった。
 必要だから、そしてそれだけの資質を久恵が備えていたから選んだのだ。
 本当の意味での経験を持たない重には、西院の女として久恵にはかなわない。
 重がまだ開花する前の薔薇の蕾なら、久恵は咲き誇る蘭に似ていた。
 淫らな美しさは、なんと西院の名に相応しいことか。
 西院の女で最も熟達しているのは、間違いなく久恵だろう。
 自分が劣っていると思うことは屈辱だが、歴然と存在する力量の差を無視できるほど重は愚かではなかった。
 久恵の代わりに、重は敵意の全てを込めて少年を睨み付けた。
 禁忌から生まれた子供は、本来ならすべて処分される。
 この少年が生きているのは、前宗主たる父の温情のおかげだというのに、その恩も忘れて久恵と戻ることを許されない場所へ来るとはどういう気なのか。
 少年は、今のやり取りがなかったかのように、ごく自然と重に穏やかな笑みを見せた。
 子供でさえ見せることのない、穢れのない透明な笑顔だった。
 ただ笑っただけで、印象がまるで変わっていた。
 そこにいるのは、特徴のない平凡な少年などではない。
 凄絶なほどの美貌の男だった。



「あらあら。あなたに見惚れてるみたいよ。お嬢様に自己紹介してあげたらどう」



 久恵の揶揄するような声もどこか遠く感じられた。
 頬が熱く、頭がくらくらとする。
 鼓動が早鐘のようだった。
 味わったことのない感覚に、重は戸惑った。
 自分はどうしてしまったのだろうか。



「唯といいます」



 低めの女の声にも、高い男の声にも聞こえる不思議な声が、少年に相応しいのかどうかはわからない。
 だた、この声をもっと聞いていたいと重は思った。



「はじめまして、重さん、朔夜くん」



 小さな弟の手が、自分の着物を強く握り締めていることにも、重は気がつかなかった。
 




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