あなたに僕が殺せますか


 凍ったように冷たく張り詰めた空気の中で、少年と少女は見つめあった。
 エメラルドグリーンを基調とした少女の振袖には、黒と銀の川をあしらい、羽を広げた丹頂鶴が描かれている。
 美しい少女だった。
 心もち吊り上ったきつい一重の眼差しは、狐目というより猫を思わせた。
 癖のないみどりの黒髪は、背中まで艶やかに伸ばされ、前髪は眉の上で綺麗に切りそろえられている。
 淡雪のように透き通る白い肌には、ほんのわずかの傷もない、どこまでも滑らかな肌理細やかさで、紅をさしたような赤い唇までが、どこか人の少女というより、人形か精霊のようにすら見えた。
 桜の精かと錯覚させるほど儚げな外見を裏切るのは、頑なな強い意志を秘めたその瞳だった。
 熟す前の果実の瑞々しさと硬い色香を匂わせながら、少年を見つめる視線はどこまでも鋭く、抑えきれない激しい熱情を込めた光を帯びているように見えた。
 それでも少年は視線を外そうとはせず、身動きひとつしようとしない。
 魅入られているわけではないようだ。
 少女に向けられた視線には、何の感情も浮かんではいなかった。
 凪いだ湖のように、少年は静かに少女の瞳を見つめている。
 誰もが目を見張る少女のような美貌ではないが、特徴のない整った顔立ちは、やはりどこか人形を思わせた。
 少女が少年のような鋭さを持っているのとは対照的に、少年の顔立ちにはどこか少女のような幼い甘さがみえる。
 同じ黒でありながら、彼女の髪よりも、もっと鋭く深い闇を思わせる軽く波打つ少しだけ長めの黒髪と、隠しボタンの黒い詰襟が、少年を影のように見せていた。
 年齢で言えば、少女の方がいくつか幼いだろうに、彼女の方が目の前の少年より大人の女のようだった。
 成熟したという意味ではなく、老成といったほうがいいのか。
 大人びた表情と、はち切れんばかりの若さが、どこかアンバランスで見るものの不安を誘う。
 それすらも少女の魅力のひとつだった。
 だがそんな少女を前にして、少しの動揺もない少年を平凡と呼べるのか。
 過度の平凡さ。それ自体が、日常から逸脱しているのではないか。
 人形のような少年と少女の対峙。
 瞬きの音さえ聞こえそうな静寂の中、風に舞う木の葉だけが、現実の証に思えるが、風の音さえ消失したように思える静けさは、かえって幻想を強めている。
 広大な敷地に広がる森は紅葉の盛りで、少年と少女の姿さえ、風景の一部のようだった。



「―――唯……」



 少女の小さな唇が、微かに動いた。



 答えは、返ってこなかった。






 西院(さい)と名乗る一族が存在する。
 その始まりは定かではなく、歴史に秘された存在しないはずの一族である。
 彼らは、快楽を操る特殊な技を継承する。
 それは真実ではなかったが、事実ではあった。
 一族の里がどこにあるのか、それはそこで暮らすものたちにさえわからなかった。
 里で生まれたものは、外を知らず、外に世界があることすら知らずに死んでいくものの方が多い。
 外部に出ることを許されたものも、外に続く道を知ることはできなかった。
 ごくまれに、外から新しい血を入れるために女たちが買われてくるが、その彼女たちも一度西院に入れば、外のことを思い出すことすらなかった。
 また、そのことに疑問を持つものも、長い間存在しなかったのだ。






 むせ返るような香の匂いに、豊越は凶悪な面相をさらに盛大にしかめた。
 普通の人間でも、この濃い匂いでは目眩を覚えるだろう。
 常人より鼻が遥かにきく豊越には、その強烈な甘さは拷問のようだった。



「気にいらねぇ―――」



 唸るように毒づくと、豊越は熊のような巨体を震わせた。



(身体の中まで染みこんでくるみてぇじゃねーか)



 何もかもが気に入らなかった。
 金に汚いという自分の評判も、そりゃ事実だと笑い流す豊越だが、彼には彼なりの客を選ぶ基準というものがある。
 その彼の基準に、今度の客は合格しているとは言いがたかったが、今回は断れない理由があった。
 金がないのだ。
 もともと宵越しの金は持たないタイプの男だが、今はかなり切羽詰っている。
 原因は賭けマージャンだった。
 ちょっとのつもりが深みにはまり、とてもじゃないが払いきれない額の借金を抱えてしまったのだ。
 普段なら暴れて終わりだが、あいにく相手は広域暴力団の幹部で、さすがに騒ぎ立てるわけにもいかない。
 皆殺しにできないこともないが、そこまでするのは、さすがに寝覚めが悪かった。
 彼のような生き物が棲むには、東京は悪い街じゃない。
 それでも、騒ぎは避けるべきだった。
 だからどんな怪しげな誘いだったとしても、借金を帳消しにして、なおかつ結構な額の報酬つきという仕事を断れるはずもなかった。



(でもなぁ……)



「失敗したかもしれねぇ……なぁ」



 だだっ広い、おそらくは趣味のいい和室も気に入らないし、待たされることもむかついていた。
 なにより仕事の内容がわからない。
 これで落ち着けという方が無理だ。
 それに、なんだか首の後ろの毛が逆立つような不穏な気配がしてならない。
 こんなときは、いつだって碌なことがおこらないのだ。



「俺にくる仕事なんて、ろくでもねぇに決まってんだがな」



 岩のようにごつごつした険しい顔を歪めると、気の弱いものなら、正面から顔を合わせただけで心臓麻痺を起こしそうな凶顔であった。



「お前が人食い虎か」



「人を散々待たせといて、第一声がそれかよ。俺には西川豊越っていう、名前があんだけどよ。雇われる立場とはいえ、礼儀ってもんがあんじゃねーのか」



 豊越に気配すら感じさせず現れた初老の男は、珍獣でも見るように、座り込んでいる豊越を見下ろした。
 実際にその程度にしか、考えていないのだろう。
 彼がなんであるかを知りながらの発言だとしたら、たいしたものだと思うが、豊越の通り名との関係を、目の前の男は把握しているのだろうか。
 悟られていたとしてもおかしくはない。
 男からは、得体の知れない奇妙な気配が漂っていた。
 獣の本能が、男には逆らうべきではないと告げていたが、豊越はあえて大きな態度にでた。



「しつけがなってねーよ。人に名を聞くときは、まず自分からってな」



「―――獣に諭されるとはな」



「おい。神経ってもんがないのか、あんた」



「礼儀とは、人間同士の間でのみ通用するものだろう。下賤のものや獣ごときにつくす礼儀など、生憎持ち合わせてはおらんのでな」



 真理を語るように、苛立ちも、嘲りすらなく、男は言ってのけた。
 いっそ感心してしまうほどの傲慢さだ。
 男にとって、それは単なる事実らしい。



「はいはい。俺は獣の上にクズですよ。仰るとおり。まったくだ」



「ふむ……。その程度の理解力はあるということか。話に聞くほど愚かというわけではなさそうだの」



(おいおい。かんべんしてくれよ)



 どんな育ち方をしたらこんな老人になるのか、この男がどなた様でも、失礼とか傲慢とかを通り越していると豊越は思った。
 それでも雇い主には変わりはない。
 他人が思うよりは、豊越は我慢強い方だ。



「おまえ、この香をどう嗅いだ」



「はぁ?」



「香がおまえに与えた影響を聞きたいと言っておるのだ。その耳は飾り物か。趣味のよくない飾りだの」



 豊越は気が遠くなってきた。怒りすら沸いてこない。
 はやくここから逃げ出したかった。



「ああ……もう、なんでもいいや。香―――なぁ……俺には、甘ったるくて気色の悪ぃもんとしか思えねぇけど……それが、なんだってんだよ」



「……獣にはやはり効かんか。―――これは、もしかするとやれるかもしれんな」



「人を置き去りにして、自分の世界に入んなよ。こっちは質問に答えたんだぜ」



「あの娘は危険すぎる……。男であれば、あれこそが本家の当主に相応しかろうに、不憫なことだ。まあ、あれが女であるおかげで、わしにも運が巡ってきたのだから、我が血筋にあのようなものが生まれたのも、思えば僥倖か……」



「おーい。じいさん。きこえてっか?」



「―――鬼子が切り札になるとはな。さだめとはわからぬものだ」



「いい加減にしねーと、この場で寝るぞ」



「おまえのやることは、この娘を始末することだ」



「人の話を聞け―――って……あぁ?」



 突然目の前に写真を突きつけられて、豊越は目を見開いたまま固まった。
 写真には、中学生くらいの振袖姿の少女が写っていた。
 その姿と、言われた内容が、頭の中でしばらく繋がらず、豊越は混乱した。



「始末って……俺の考えてる通りの始末かよ」



「そういっとるだろうが。始末屋にそれ以外の何を依頼するというのだ」



「誰をよ」



「だからこの娘だ。耳だけではなく、頭まで飾り物か」



「なんでよ」



「理由が必要か?」



 男は初めて嘲りの笑みを浮かべた。
 豊越も苦笑する。
 始末屋は依頼人の事情など頓着しない。
 だが、豊越は違う。
 それを目の前の男は知らないらしい。



「わしがおまえを買い取ったのだから、言われたままに動くのがおまえの務めだろう。断れば借金の話も白紙に戻ることだしの」



 写真の中で、日本人形のような美少女は、微かに固い笑みを浮かべている。
 しげしげとそれを眺めて、豊越は大きく息を吐いた。
 ロリータ趣味はないが、これほどの美少女なら悪くはない。
 気は進まなかったが、男の言うとおり、断れる話ではなかった。



「なあ、このガキ、犯っちゃってかまわねぇのか」



「ふふん……できるものなら、かまわんさ。確実に始末できるなら、やり方は問わん。おまえのいつものやり方で始末さえすればな」



 豊越が始末した人間は、死体も残らない。
 完璧な始末屋と呼ばれる理由だ。
 はじめてみせる、端正な顔の男の醜く歪んだ表情に、豊越は安堵した。



(これが人間ってもんだよな)



 何もかもが気に入らなかったが、豊越はニヤッと笑った。



「詳しい話を聞かせてもらおうじゃねぇか」



それは、獲物を見つけた肉食獣の笑みだった。






旧キリバンリクエスト作品です。データがとんでしまいましたので、お名前が見つからないのですが、リクエストしてくださった方にお捧げします。
すいません。待たせすぎな上にこんなことになってしまいまして。
改稿の上、今年中に完結させます。