乱暴に開けられた扉は、蝶番が外れて傾いている。
 今月に入って、二度目の破壊活動に、部屋の主が小さくため息をついた。


「あいかわらず、チンケな事務所だな、おい」


 ドアを壊した張本人は、何事もなかったように、当然といった顔で、来客用のソファーに寝転がった。


「おまけに、所長も辛気臭いしよ。同じ黒でも、もっとなんかあるだろうが。葬儀屋みてえな格好はどうにかなんねえのか。一年中同じ服はねえだろ。同じ服はよ。それ、着替えてんだろうな。着たきりスズメだとか抜かすなよ。いや、同じ服何着ももってんのも、考えてみたらこえーじゃねえか。どっちなんだよ、おい。それにしても、ここの主は、客に茶も出しやがらねえのか。常識がねえんだな。ああ、そうか、そもそも来客用のカップがねえじゃねえか。自分の分だけ、たっけー紅茶用意してるくせによ。そもそもおまえは……」


「豊越さん」


 静かな声だったが、岩のような顔をした大男は、その言葉に込められた何かに、少しの間だけ静かになった。


「聞こえてんなら、返事しろよ」


「口を挟む隙がなかったんですよ」


「そんな、タマかよ。どうせ、俺の相手をすんのが面倒だったんだろ。女にばかり優しくしやがって」


「それは知りませんでした。豊越さんは、僕に優しくしてほしかったんですか」


 無表情のまま、ユイが呟くと、豊越の浅黒い顔が真っ赤に染まる。


「そんなこと、言ってねえじゃねえか!」


「それで、ご用件は、なんでしょう」


 冷たく切り返され、豊越は岩のような顔をますます険しくする。
 一般の人が見たら、それだけで腰を抜かすような凶顔だ。
 しかし、ユイはいっこうに気にした様子を見せず、デスクに座ったまま、鉛筆をカッターで削っていたりする。


「もちろん、仕事の件でしょうね」


「ああ、わかったよ。言えばいいんだろ。言えば」


「いつものことですが、あなたは何故、用件から話せないんでしょうね」


「わかったっつってんだろ!」


「理解したなら実行してください」


 実りのない会話に、豊越は目眩を覚えた。
 同じような会話を交わすようになって、もう2年になる。
 それでも、追い返されなくなっただけ、豊越とユイの関係も変わったのだろう。
 初めてユイとであったのは、4年前。
 ユイはまだ、学生服の少年だった。


「あの頃は、もっとかわいかったよな」


 もっと、情け容赦なく、怖かったけれど。


「昔を懐かしむのは、老化の始まりですよ」


 可愛くねえ。
 豊越はその言葉を飲み込んだ。
 言われる言葉は想像がつく。
 不毛さに拍車がかかるばかりだ。


「仕事の話だ。いっとくが、俺のじゃねえ」


「夕貴さんに何がありました」


「……なんでわかんだよ」


「彼女以外のアフターケアーは万全です。トラブルがあるとすれば、夕貴さん以外にいない。あなたが話をもってきたのなら
、暴力団関係、昔の男ですか」


「宗家がらみとは、思わなかったのか」


「あそこは、今僕に手が出せる状態にありません。お家騒動の真っ最中ですから」


「縁切ってるくせに、やけに情報通だよな。お前」


「人徳です」


 相変わらずの無表情が小憎らしいが、ユイの情報の確かさと、頭の回転の速さには素直に脱帽するしかない。


「興武会のチンピラが、その女とトラブってるらしいぜ」


「情報源は」


「内緒だ」


 スーツにかかった鉛筆の削りカスを軽く払って、ユイは傾いたドアを蹴った。
 壊れかけた扉は、これで完全につかいものにならない。


「まだ全部聞いてねえじゃねえか」


「キュラさんに直接聞きますよ。その方が早いし、正確です。それに、あなたの情報提供は代償が法外ですからね」


 全部ばれている。
 金権主義の謎の女占い師は、ユイには甘いのだ。
 もっとも、ユイに甘い態度をとらずにいられる女の方が珍しいが。


「一発やらせろってのが、そんなに法外かよ」


「僕は高いんですよ」


「百万ぐらい俺だって払えるぜ」


「男は特別料金です。あなたの収入じゃ、一生かかっても支払いきれません」


「ドアないのに事務所あけていいのか」


「何もない事務所ですから、盗るものなんてありませんよ。心配なら留守番しててくれてもいいですよ」


「おい、人の話は最後まで……」


 豊越の言葉は、もちろんユイには届かなかった。


 獣のような体勢で、夕貴は三人の男に犯されていた。
 何度も殴られた顔は、無残に腫れ上がっている。


「ヤリマンのくせに、人並みの幸せなんて、バカくせーもん夢見てんじゃねえよ」


「おい、こいつ全然濡れねーじゃねえか。不感症なんじゃねえの」


「そんなわけねえだろ。こいつ誰とでも寝るんだぜ」


「輪姦は初体験なんだろ」


 夕貴を嬲りながら、男たちは冗談のように笑いあっている。
 こんなことは、彼らにはどうでもいいことなのだ。
 男の1人は昔、何度か寝た男だ。
 夕貴の部屋に転がり込んで、ヒモのような生活をしていた時期もある。
 セックスのとき以外は、人形のように無反応な夕貴に愛想を尽かして出ていった男だ。


「お前、笑えたんだな。あんな冴えない男相手によ」


 男の襟元に、興武会の金色のバッチが光を反射している。


「……和喜」


 涙が頬を伝って、顎の先から地面に滴り落ちる。
 傷の痛みよりも、乾いた部分を何度も貫かれ、血が滲む苦痛よりも、和喜への想いが夕貴の胸を締め付ける。
 和喜は、どうなったのだろう。


「あのサラリーマン、どうしたんだよ」


「ああ? 死んでんじゃねえの。ひ弱そうだったしよ」


「蹴り入れたぐらいで死ぬか? 普通よ」


「おいおい、歩道橋から蹴り落としたのは、お前だろ」


「そうだっけか」


「お前、トルエンのやりすぎじゃねえの、脳みそとけてるのと違うのか、それ」


「てめえだって、そうじゃねえか」


「違いないな」


 絶望的な記憶が、夕貴の脳裏に蘇ってくる。
 和喜、和喜、和喜、和喜!
 夕貴は何度も祈った。
 自分はもう、どうなってもいい。
 和喜さえ無事でいてくれるなら、生きていてくれるなら。
 もしかしたら、和喜はもう生きていないかもしれないという恐怖を、夕貴は必死で否定した。


 ユイの治療を受けてから、夕貴は幸せだった。
 もう、ユイ以外のセックスでは感じないのではないかという不安も、和喜と指が触れ合っただけで霧散してしまった。
 愛している。
 こんなにも、和喜を愛している。
 出会って半年目に、ようやく迎えることができたセックスは、夢のような時間を夕貴に与えてくれた。
 ユイから受けたような激しいものではなく、染み渡るような幸福感。
 ままごとのような同居生活から、ようやく和喜の本当の恋人になれた気がした。


「なんか、はじめてだ」


「なにが、和喜?」


 和喜は照れたように、顔をそむけると、口の中でぼそぼそ呟いた。


「心まで気持ちいいっていうのがさ」


「あたしもだよ」


 二人で顔を見合わせて、クスクスと笑いあった。


 幸福が突然訪れたように、不幸もまた、突然だった。


「よお、夕貴じゃねえか」


 スーパーに夕食の材料を買いに行こうとした途中で、夕貴は昔の馴染みの男に声をかけられた。
 歩道橋の真中で、避けることもできなかった。


「こいつが、今の男かよ」


「もう、あたしみたいなつまんない女には、用がないんじゃなかったの」


「夕貴に、なんのようです」


 夕貴をかばうように、和喜は男の前に立ちふさがった。


「はあん。それ、かばってるつもりかよ。そんなスベタをよ」


「取り消せ」


「ああ?」


「今の言葉を取り消せって言ったんだ!」


「和喜やめて!」


 夕貴と暮らしていた頃、男はただのチンピラだったが、最近大きな取引を成功させて、興武会のバッチを預かるようになったと噂に聞いていた。
 興武会は、この町で最も勢力を誇る暴力団だ。
 男の機嫌を損ねただけで、和喜は今の会社にはいられなくなるだろう。
 もちろん、もっと悪いことだって考えられる。


「最近、たるくてよ。退屈してたんだ。だから……」


 いつのまにか、夕貴と和喜は数人の男たちに囲まれて逃げ場を失っていた。


「遊んでくれよ!」


 言葉と同時に、男は和喜を殴り、バランスを崩した和喜の体をそのまま強く蹴った。


「和喜!」


 歩道橋から和喜の姿が消えて、夕貴は三人のやさぐれた男たちに乱暴に引き据えられた。


「それじゃ、ひさしぶりに、遊んでもらおうかな、夕貴?」


 和喜の無事を確認することは、できなかった。
 男に腹を蹴られた夕貴は、そのまま気絶してしまったからだ。


 気がつくと、古びた倉庫のような場所に連れ込まれていた。
 服は破かれ、ほとんど下着だけの姿で、夕貴はざらざらしたコンクリートの床の上に転がされていた。
 男たちはニヤニヤと笑いながら、夕貴を見下ろしていた。
 逃げようとして、夕貴は何度も殴られた。
 気が遠くなるぐらい手ひどく犯されて、夕貴はもうなにもかもどうでもよくなってきた。
 このまま、死んでしまいたい。


(いや! お兄ちゃん! 痛いよ……痛い……なんでもするから、もうやめて……)


 苦痛の中で、夕貴は兄との行為を思い出した。
 

(あたし……?)


 兄を探していたのか。大好きだった兄。自分にひどいことをした兄。
 好き。でも恨んでいる。ずっと忘れていなかった。
 ずっと自分は、兄の代わりを探していたのだ。


(ごめん、和喜)


 和喜に対する申し訳なさだけが、夕貴の正気を保っている。


(あたしと会わなければ、あんな目にあう人じゃなかったのに)


 自分のせいだ。
 和喜と出会うまでの、自分の全てが許せない。


(でも、愛してる。ずっと、愛してる)


 それだけは、本当だ。
 意識が消えかけそうになる寸前、夕貴は少し高めの、それでいて耳に優しい不思議な声を聞いた。
 どこかで聞いた、あの声は……。


「夕貴さんを、お離しなさい」


 彼の無表情は、こんな時でも健在だった。


「……ユイ……さん?」


 彼がここにいる理由がわからない。
 それでも、夕貴は何故か、もう大丈夫だと思った。
 安心して、今度こそ夕貴は意識を失った。


「誰だよ、お前」


「なまっちろい顔した兄ちゃんのくる場所じゃないぜ」


「ついでだ、こいつもフクロにしようぜ」


「下劣な人たちだ。しかし、アフターケアーも料金分ですし。仕方ありません」


 そんな会話が、最後に記憶に残った。