紅茶を一杯飲みませんか
濃密な空気の中に、女の喘ぎ声が響いている。
濡れたような響きは、男の欲情を誘うには十分だったが、悲鳴のようにも聞こえる切ない呻き声は、とうに掠れきっていた。
その嗄れた声すら、淫猥に聞こえるのは、女が快楽に溺れきりながら、未だに達せない……いや、イキ続けるという拷問に等しい快楽に浸っているせいだ。
「あっ……ん…くっ…う……はぁ…ああああああぁぁぁぁぁん」
女の表情は、快楽よりも苦痛を訴えているようにしか見えなかった。
苦しげな女の顔は、それでもそれが快楽であることを如実に示している。
男なら、この声と顔に欲情しないものはいないだろう。
股間の怒張を抑えられる男などおるまいと断言できるほど、女の姿は淫らで下半身に直接訴えかけるフェロモンのようなものがあった。
実際には、過ぎた快楽は耐え難い苦痛に等しい。
甘美でありながら、地獄のような悦楽を、女は耐える方法も知らずに、ただただ翻弄されていた。
見事な褐色の肌を、滝のように汗が流れ落ちる。
全身が汗と愛液にまみれ、街で見かければ、健康的で活発な印象を与えるオークルな肌も、今はねっとりと淫水で濡れて光っているかのようだった。
この淫らな時間をどれだけの間味わっているのか、思考を手放した女にはもうわからなかった。
足の先から脳天までを、突き抜けるような快楽だけが、今の女の全てだ。
自分の全てが支配されているというのに、恐怖や反発、いや―――今はこの強烈な快楽ですら凌ぐほどに強烈な幸福感が女を満たしていた。
「夕貴さん、耐えなくてもいいんですよ」
女―――夕貴にまたがれた体勢のままで、男は優しく囁いた。
横たわっているのは男の方で、彼女は鍛えられながら華奢ともいえる男の均整のとれた美しい肉体の上に乗り上げ揺すられていた。
騎乗位は女が優勢の体位のはずだが、主導権は完全に男のものだった。
優しい声とは裏腹に、特徴のない男の顔には表情がまったくなかった。
よく見れば、男の顔が、ぞっとするほど整っていることに気がついたかもしれない。
だが、それは夕貴の状態のせいではなく、男には印象というものが感じられないせいだった。
幻のように、手ごたえがないのだ。
「流れのままに、崩れてしまいなさい」
男は汗すらかいていなかった。
獣の欲望が、男からはまったく感じられなかった。
夕貴だけが乱れている。
それを不思議には思えない自分が不思議だった。
この男が乱れる姿など想像がつかない。
キレイな人だと思った。姿形ではなく、存在が美しい男。自分とは違う。
これほど自分を乱しながら、彼は汚れるということがないように思えた。
そして、彼に抱かれる好意は、与えられる快楽の大きさにもかかわらず、どこか神聖な感じがした。
男が与える悦楽に翻弄されながら、夕貴は優しく響く男の声に酔った。
あと二ヶ月で22になる夕貴は、初体験の12の時から、数え切れないほどの男を経験していたが、オーガズムを経験したことは一度もなかった。
最初の相手は兄だった。
当時の自分は、兄を好きだったよう泣きがする。
今では、声を聞くだけで吐き気がするぐらいだが、兄にやめてとは言えなかった。
当てつけのように、街に繰り出して男を誘った。
女子中学生は高く売れた。それだけが自分の価値だった。
セックスは気持ち悪い行為でしかなかったが、夕貴は誘われれば誰とでも寝た。
優しい男も、乱暴な男も、気持ち悪さに大差はない。
触られると鳥肌がたち、吐き気がこみ上げる。それを見せ掛けの快楽に変換して男に媚びてみた。
最初の男だった兄に、女がどういうふうに感じるのかをビデオで見せられて、それをそのまま夕貴は真似してセックスをした。
男たちは、それが演技だと誰も気がつかなかった。
夕貴は男が嫌いだった。大嫌いだった。憎しみしか感じなかった。
この世から全ていなくなればいいとさえ思っていた。
だが、誘われれば、そのままついていってしまう。
そんな自分が不思議だったが、どうすることもできなかった。
それが、今、夕貴は何度も快感の波に飲まれていた。
生まれてはじめて、セックスを気持ちいいと、全身で感じている。
「はぁ……ん、ああ…やっ…ん」
何度目かの絶頂を迎えて、夕貴は男の胸の上に崩れ落ちた。
「あんたは、いかなかったね」
男は一度も射精しなかった。
張り詰めた男自身は、一度も固さを失うことがなく、夕貴を責め続けたけれど、彼がほんのわずかにも、欲望に動かされたようには見えなかった。
「治療ですからね。ゴムを使うのはあまり効果が期待できないんです。でも安心してください。妊娠などの心配がないことは100%保証しますよ」
男の表情は、まったくかわらない。
不感症の治療のために、夕貴は百万円で男を雇った。
街でたまたま見つけた占い師の紹介だった。
怪しげな占い師の言葉を信じたわけではなかったが、夕貴は可能性が少しでもあるならそれに賭けてみたかったのだ。
一番最初に、この男を紹介されたのは、多分運がよかった。
こんな胡散臭い商売は、絶対詐欺に決まっている。
だけど、この男はホンモノだった。
「仕事じゃなかったら、あんたの欲情したとこ見れんの?」
挑戦的に、夕貴は男を見つめた。
「先走りの液すら出ないなんて、そんなことどうやったらできるのさ」
葬儀屋のようなスーツで身を固めた男を見ていると、さっきまでの時間が幻だったような気さえしてくる。
夢だとしたら、最高の夢だった。
「あたし、もう不感症じゃないんだよね?」
「ええ、好きな人とちゃんと愛し合えますよ。身体も……心も」
「あんたを、あたしのもんにするには、どうしたらいいのさ」
哀願することだってためらわなかった。
こんな男はきっとどこにもいないだろう。
夕貴は、絶望的なまでに、目の前の男が欲しかった。
自分のものにならなくてもいい、せめて彼に自分の中でイってほしかった。
翻弄されたのが自分だけだなんて、惨め過ぎる。
「あなたには、好きな人がいるでしょう」
「もう、あんなやつ、どうでもいいよ!」
夕貴は泣きたくなった。
どうでもいい。この男が手に入るなら。
「本当に……そうですか?」
耳元で男が囁くと、途端に夕貴の脳裏に1人の面影が浮かんできた。
その途端、目の前の男をあんなに欲しがった自分が理解できなくなる。
「あたし……?」
「あなたが欲しいものは、そこにありますよ」
男にしては少し高めの声が、優しく耳に響いた。
半年前、夕貴は初めて恋をした。
きっかけはいつもの男と同じ。
街をブラブラしていたら、声をかけられたのだ。
いつものようにホテルに行って、シャワーを浴びたところまでは、いつものパターンだった。
あまりしゃべらない、外見もぱっとしない、地味な印象のサラリーマンだった。
そういうタイプも初めてではなかった。
ストレスがたまった若い会社員が、誰とでも寝るような女を気晴らしに誘ってみるのも、よくあることだ。
違ったのは、結局そいつは夕貴を抱かなかったのだ。
役に立たなかったわけではない。
そういうことなら、前にもよくあった。
インポというのは、男たちが深刻になるほど気にすることじゃない。
よくあることなのだ。
酒のせいだったり、心配事や悩みがあったり、些細なことでも男の機能は動かなくなることがある。
気にしすぎると治らない。一種の神経症のみたいなものだと夕貴は思っている。
だが、シャワーを浴びてベッドに行った夕貴に、男は手を触れなかった。
タオルで覆った男の前は高くそそり立っていた。
それが夕貴への欲望を表す確かな証だというのに、その肌に触れようとすらしなかったのだ。
「ごめん、悪かった」
「なんで、あんた、あやまってんの」
わけがわからなかった。
「そういう女だと思ったんだよ」
「そういうって、どうよ」
「だから……簡単にやれる女」
男はうつむいて小さく言った。
「あたし、そういう女だよ」
馬鹿にされたとは思わなかった。
実際に夕貴はそういう女だ。
それでも、他の男に面と向かって言われれば、夕貴はきっとキレていただろう。
「だって、震えてたじゃないか」
男の言葉は、はじめ夕貴には理解できなかった。
「なに、いってんの、あんた」
言葉の意味が理解できたとき、夕貴は真剣に驚いた。
男の前に肌をさらすとき、夕貴はいつも嫌悪感で硬直する。
だけど、今までそれに気がついた男は、一人もいなかった。
「誘った俺が言うのもあれだけどさ、自分大事にしたほうがいいよ」
服を着ようとする男の腕をつかんだのは、咄嗟のことだった。
「まってよ」
自分でも何を言っているのか、何をしたいのかわからなかったが、夕貴は男を呼びとめた。
「あたしと、いっしょに寝よう」
「おい、無理しなくたって……」
「だから、ただいっしょに寝るだけ」
「マジか、それ」
「だめかな」
「いっとくけど、すげーつらいんだぞ」
「……ごめん」
「しょうがないか」
夕貴は朝まで、男と手をつないで寝た。
男の名前は和喜。
初めてできた、夕貴の本当の恋人の名前だ。
「でも、あたしは、あいつと寝れないんだよ?」
ついさっきまで、目の前の男が欲しくてたまらなかったのに、渇望はあっというまに消えてしまった。
和喜と抱き合えないことが、たまらなく悲しくて悔しく思える。
「せっかく、好きになれたのに、どうして!」
和喜と出会ってから、夕貴は他の男に触られると鳥肌が立つようになった。
だが、和喜を前にすると、震えがとまらなくなる。怖いのだ。求めているのに、怖くてたまらない。
「好きな相手とセックスできないなんて、いっしょにいる意味ないじゃん」
セックスは、今でも好きにはなれない。
喜びを知らないのだから当然だろう。
それでも、相手と自分を繋ぐものセックスしかないとしか考えられなかった。
他の男とセックスができなくなったのはいいが、和喜に触られることも夕貴には耐えられなかった。
鳥肌は立たない。嫌悪感もない。
ただ、怖いのだ。
その恐怖がどこからくるのか、夕貴にはわからなかった。わからないから、変えようもなかった。
「セックスがすべてではありませんけどね」
「そんなの、きれいごとだよ」
待ってくれるという和喜だって、このまま夕貴とセックスができないのなら、他の女に走るに決まっている。
はじめて好きになった人だ。抱かれたいと本当に思った相手なのだ。
どうしても、失いたくなかった。
「まっていてくれるんでしょう、彼は」
和喜は何もいわずに夕貴を愛してくれる。
それが余計につらい。
今の夕貴には、和喜に返せるものが何もない。少なくとも夕貴にはそう感じられた。
「あなたは、もう大丈夫ですよ」
男の台詞に、夕貴は顔を歪める。
「あんたじゃなくちゃ、あたしをあんなふうにはできないよ!」
「だから、大丈夫なんですよ。僕が開放したのは、夕貴さんの……心です。心というものは、人が考えるよりもずっと、身体と直結しているものですから、心を開放すれば身体も開放されますし、その逆もありえます。その準備ができるよう、僕は手助けしただけですから、あなたの傷は彼が癒してくれますよ。必ずね」
「なんで、そんなに自信あんのさ」
そこで、男ははじめて微笑んだ。
「プロですから」
息が止まるほど、美しい笑顔だった。
口元をほんの少し上げただけで、印象が一変する。
こんな優しい笑顔を、夕貴は見たことがなかった。
「あんた。えっと、ユイさん? あたし、ホントに大丈夫かな?」
泣きそうになって、夕貴は男の背中に呟く。
「保証しますよ」
閉まったドアを、夕貴はいつまでも見つめ続けた。