第一話 地下都市
ダストシュートから放り込まれた小さな身体は、すごい勢いで処理場に落ちていった。
薄汚れた灰色の子供は、意識がないのが、悲鳴も呻き声さえ上げずに転がり落ちていく。
金属製の壁に何度もぶち当たりながら、ほんの数分でゴミを一時集めておく集積場の一番上で、子供の身体は何度かはねて、そのままぐったりと倒れた。
その集積場は、実験動物の廃棄場らしく、積み上げられたゴミは、そのほとんどが腐敗した動物や肉片などだった。
枯れた植物や、滑った菌類のようなもので覆われた箇所もある。
もともと薄汚れ、傷だらけだった身体が、汚物に塗れてひどいありさまだった。
だが、不思議なことに、急傾斜のダストシュートに放り込まれ、かなり高い位置から落下したわりには、子供の身体に大きな怪我はないようだった。
内臓が無事かどうかは外見からは判断がつかないが、それでも息をしていることは間違いはない。
子供は生きていた。
壊れた配水管から噴きだした水飛沫が子供の身体を濡らすと、ようやく子供は目を開いた。
それは、劇的な変化だった。
見開いた大きな瞳は、底まで透き通るようでいながら、ルビーよりも鮮やかな赤だった。
痩せて貧相な顔つきの中で、目だけが異様にギラギラと生気を放っている。
そこにあるのは怒りだった。
何に対してのものかはわからない。
ただ、子供は怒っていた。
怒りだけが、子供を形作っているように、その赤い瞳には憎悪しかなかった。
いや、憎しみではなかっただろう。
それを感じられるほど、子供の精神は発達していない。
子供はただ、とてつもない不快感を、露にしているだけなのだ。
ふらつきながらも、子供は何度も立ち上がろうとして、その度に崩れ落ちた。
何度目かに立ち上がろうとした身体が、死体の山から転がり落ちて、腐臭のする濁った水溜りの中に落ちた。
ボロボロの布切れと化していた衣服の残骸が邪魔なのか、子供は服を引き裂くと裸になった。
腐った肉の匂いがする水ではあったが、それが子供の身体を洗い流し、汚れを落とした。
人目を引くのは赤い瞳だけではなかった。
傷だらけの肌は、透き通るように白く滑らかで、伸び放題の奔放な髪は、煌くような純白だった。
5歳ぐらいの子供は、アルビノの少女だった。
この地下の都市では、漂白されたように白っぽい外見の人は珍しい存在ではない。
だが、どこか不健康な白さの地下の住人たちとは違い、少女の白さは生まれつき色素を持たないものだけが持つ不思議な美しさがあった。
なによりも、こんな激しい瞳を、地下の人々はひとりも持ってはいない。
薄汚れた少女を何よりも美しく見せているのは、案外整った外見ではなく、その瞳に浮かぶ激しい感情だった。
少女は一言も口を開きはせず、唇をかみ締めて、身体をひきずって前に進んだ。
どこへ行こうというのか、おそらく彼女自身にもわからなかっただろう。
だが、このままでは死ぬという絶対的な事実を、少女は感じていたのかもしれない。
集積場は、ある程度の重量に達すると、処理場へと底が抜けるのだ。
そんなことを知らなくても、少女は非常用の出口へと一歩一歩身体を動かした。
生きようとする本能だけが、小さな身体を支配していた。
死にたくない。
死の意味を知らなくても、少女は死にたくない自分をおそらく知っていた。
たとえ、すべての人が、彼女の死を望んでいたとしても、いや、だからこそ余計に死ぬわけにはいかないと、少女の感情を言葉にしたならそうなるだろう。
今の少女はそんな自分の心を説明することもできなかったが、ただ生き延びるために扉に近づいた。
その瞬間、大きな音を立てて、腐った動植物が動き出した。
アリジゴクの巣のように、中心部が見る見るうちに沈んでいく。
少女の身体も、その傾斜に飲み込まれようとしたとき、誰かの手が、少女の腕をしっかりとつかんだ。
いつのまにか、扉は開かれていた。
暗い処理場の中から見た外は光の洪水のようだ。
腕を掴んだ青年の手が、軽々と少女を抱えて、彼女を見つめると表情を歪ませた。
透明な液体が、その人の頬を伝っていた。
それが涙だということを、少女は後になってから教えてもらった。
先生と呼ばれた青年と、後にルビーと名付けられた少女は、こうして出会った。
「先生! 今日は何をするの?」
「先生はよしてくれよ、リトルレディ」
「だって、先生は、先生なんでしょ、なら先生でいいじゃない」
眉根を寄せる青年に、活発で明るく成長した少女が笑って言った。
「わたしはゼロだよ。何故キミは先生という言葉にこだわるのか、理解に苦しむよ」
「先生も名前で呼んでくれないじゃない。だから私も呼ばないことにしてるの」
ゼロは違法研究者だった。
この都市には、いつか戦争で汚染された地上に戻り、緑の大地を取り戻すためという名目で、様々な実験が繰り返されている。
ゼロはそんな実験の被験者たちを密かに匿い、治療を続けている元技術者だった。
ルビーもゼロに助けられた実験体のひとりだ。
あれから10年。
親子のように、兄妹のように、ふたりは共に過ごしてきた。
もちろん、最初から上手くいったわけではなかった。
ゼロは治療以外で他人とコミュニケーションを取ることに不器用だったし、全てに対して怒りを見せるしか、世界と関わる方法を知らなかった廃棄された実験体の少女とでは、意思の疎通をするだけでもずいぶん長い時間がかかった。
今、こうして家族のようにいられるのは、ゼロが諦めず、根気強くルビーの心に語りかけたおかげだった。
ルビーという名はゼロが付けたものだ。
『宝石の名だけど、不滅の炎という意味でもあるんだよ』
言葉も知らなかったルビーに根気強く、色々なことを教えてくれたゼロは、ようやくゼロに懐いた彼女にそう言った。
ルビーはその言葉をとても大切に思っているのに、肝心の名付け親はリトルレディとか、キティとかと適当な呼び方でしか呼んでくれないので、最近では意地になって先生と呼んでいる。
といっても、ゼロが何の研究者なのか、ルビーは知らなかったし、興味もなかった。
地下都市とはいっても、人工的に作られた光源は、人が暮らしていくには十分だったし、食料にも困ったことはない。
ゼロが言うには、地上を知っている人間はもう誰もいないのだということだった。
なら、もしかしたら自分が受けていた実験にゼロが関わっていたかもしれないという事実など、ルビーは知りたくなかった。
『都市の天井が青いのは、昔の地上の空が青かったからなんだ。今はどうなんだろうね』
夢見るように地上のことを語るゼロを見るのは嫌いだった。
そうなると、ゼロは自分を見てくれなくなる。
本当の空なんて、ルビーは知らない。知りたくもない。
ゼロと暮らす、地下の最下層が、ルビーにとっての世界の全てだった。
「ゼロいうのは、ただの記録番号だよ。名前じゃない」
いつも抱えている大きな荷物を引きずりながら、ゼロは呟いた。
「じゃあ、先生の本当の名前はなんていうの? あたし先生の名前知りたい。すごく知りたい。その名前なら、呼んであげてもいいよ」
人には全員記録番号がついているのだと、ルビーは教えてもらった。
機械に管理された都市は、番号を教えるだけで何でもできるのだと。
番号を持たない廃棄された実験体であるルビーには関係ないことだったが、ゼロというのが番号だと初めて聞いたのだ。
ルビーはゼロの本当の名前が知りたかった。
「名前はないよ。ごめんよルビー。わたしにはキミに教えて上げられる名前がないんだ」
「名前がない人もいるの?」
ルビーはゼロ以外の人を遠目にしか見たことがなかった。
だけど、人よりも遥かに鋭い聴覚は、彼らの会話の内容をすべて聞き取ることができた。
みんな互いを名前で呼び合っていた。
番号で呼び合う人など聞いたことがない。
でも、ゼロが嘘を言うはずもないので、ルビーは首をかしげた。
「わたしはゼロだからね。わたしに名前が必要だと考えた人間はいなかったんだ」
感情のない平坦な声は、だけどどこか寂しげだった。
名前がとても大切なものだと教えてくれたのはゼロだった。
本当はゼロが一番、名前を欲しかったのではないだろうかとルビーは考えた。
でも、誰もゼロに名前をつけてくれなかったのだ。
ゼロが彼女にルビーという綺麗な名前をつけてくれたようには、誰も。
それは、とても悲しいことだった。
名前をもらって嬉しかったことを覚えているから、名前を呼んでもらえないことが寂しいから、ルビーはいいことを考え付いて、ゼロに向かって笑った。
「あのね、先生。あたし先生に名前をつけてあげる。今はもちろん考え付かないけど、先生にぴったりの名前考えるね。ね、約束しようよ。約束」
「……期待しないで待っているよ。わたしのリトルレディ」
「もう、ホントだからね。だから、名前を付けてあげたら、私の名前もちゃんと呼んでよ。これも約束だからさ」
教えてもらった指きりをして、ルビーはゼロに抱きついた。
はじめて会った時からゼロは少しも変わらない。
もうすぐルビーはゼロの身長に追いついてしまうだろう。
人は、ルビーのように早く大きくなったりしないのだ。
「今に、先生より大きくなったら、もうリトルレディなんて、呼べないね」
「たとえ、キミがそのビルより大きくなっても、いつまでも私のリトルレディに変わりはないよ」
「ええ? アタシってビルより大きくなっちゃうの!」
ショックだった。
いくらなんでも、そこまで大きくならなくてもいい。
「くっくっくっ……冗談だよ」
「ひどい、先生! 本気にしたじゃない!」
頬を膨らませたルビーは、すぐにいっしょに笑いながら、路地裏をさらに地下に向かって走り出した。
地上に一番近い部屋の中から、女は下層を見下ろした。
汚らしい実験の失敗作たちが生活する地下都市の最下層には、同時になんとしても探しださなくてはならないふたつの宝が眠っている。
もっとも、その片方については、女はどうでもいいと思っていた。
取り戻したところで、役に立つとも思えない。
あれは失敗作だったと、今でも彼女は思っている。
しかし、コンピューターによって制御され、意思を持った機械が法であるこの都市では、中枢のコンピューターであるフランシアの指令は絶対だった。
10年前から、フランシアはひとつの命令を繰り返している。
『ウシナワレタ、フタツノタカラヲ、カイシュウセヨ』
彼女にとってどうでもよくても、フランシアにとっては、見過ごすことのできない重要な因子だったらしい実験体を、彼女は10年前にダストシュートに放りこんだ。
最初の実験体という以外、なんの成果も上げられなかった、アルビノの子供などに何の意味があるのか、それを考えることはフランシアを疑うことだ。
それはしてはならないことだった。
だから、女はもうひとつの宝に意識を移した。
二つの宝は共にあるのだから。
「連れ戻してあげる。ゼロ……」
私のところへと、女は静かに呟いた。
後ろに立つ青年の表情が、痛みをこらえるように歪んだことを、女は知らない。
漂白されたような、白い女の外見と異なり、青年は、鮮血のような赤い髪と、金色に光る瞳に、鳶色の肌をしていた。
2005/2/18 UP