イノセントビースト


プロローグ



 風が熱い。

 大気が熱気を帯びていた。
 砂混じりの熱い風が、嵐の到来を知らせる。
 どこまでも続く荒れ果てた不毛の大地。赤く乾いた荒野に、崩れかけた廃墟が、ただぽつんと、忘れ去れたように佇んでいる。

 それは、都市の残骸だった。

 風化しかけたビルの群れは、かつての繁栄の皮肉なモニュメントのようだ。
 破滅の理由も、もう、覚えているものは、誰もいない。
 全ての記録は失われたのだ。

 あらゆる記録が消滅したのは、わずか数日前のことだったが。
 それを嘆くものさえ、もはや存在しなかった。
 
 訪れるものが永遠に存在しなくなった後も、都市はそこにありつづける。
 いつか、ここも風に埋もれ、赤い荒野となる日がくるのかもしれない。
 それでもなお、都市はそこにあった。
 
 生物の痕跡を見出せないほどの乾燥した荒地に、かつて映画館と呼ばれる場所だった建物がそびえていた。

 その側に、いくつかの人影があった。
 数にして、四十名ほど。年齢はバラバラだったが、その全員が子供だった。
 照りつける太陽の熱気を避けるように、建物の影に子供たちは寄り添い合っている。
 赤ん坊も混じっている子供の集団は、全員が黒い肌に赤い髪、そして猫のように虹彩が変化する金色の目をしていた。
 髪の色は、同じ赤でも様々だった。
 血のような赤から、夕焼けの赤まで、色々な赤がある。
 肌の色もその子によって黒さの度合いが違う。
 まったく共通しているのは、今は針のように虹彩が細くなった金の瞳だけだ。
 皆、手術着のような、薄い青色をした簡素な衣装で身をつつんでいる。

 子供たちは静かだった。
 誰一人、言葉を発しようとしない。
 そして、誰もが同じ場所をじっと見ている。
 空気が張り詰めるような緊張がそこにあった。

「どうして……」

 最年長の少女が、絞るように震える声を出して震えた。
 大人びてはいるが、十二をこえてはいないだろう。
 少年のように短く刈りこんだ髪は、鮮やかなオレンジに近い色をしている。

「どうして、あのふたりが戦わなくちゃいけないのよ」

 視線の先に、ふたりの人影が見えた。
 いや、片方は獣の形をしているようにも見えた。強い風に巻き上げられた赤い土煙で、はっきりとした映像を捉えることができなかったが、それはあきらかに人の形をしていなかった。
 常人をはるかに超える視力を与えられた少女にすら、彼らの姿がぼんやりとしか見えない。
 少女は思った。彼女は今、どんな表情をしているのだろうかと。
 彼らを助けてくれた恩人であり、少女にとっては生命への憧れそのものキレイな人を想うと、息が苦しくて涙が流れそうになる。
 今の彼女の気持ちを、知りたいと思うし。知りたくないとも思った。

「どうして……」

 何度も呟く少女に、傍らに寄り添っていた少年が諦めたように首を振った。

「どうしようもないんだよ。どっちみち、僕たちにはとめられないんだ。見続ける以外にできることなんてなにもない」

「だって、もう戦う理由はどこにもないのよ!」

「理由は……彼らふたりが決めることだ。僕たちには理解できなくても―――たしかに彼女にはもう理由はないかもしれない。だけど、あいつには止められない理由があるよ」

「あの女は死んだのに……?」

「それは僕にはわからないけどさ、あのひとは、あいつにとって特別な人だった。絶対に代わりのいないたった一人の人だった。認められないんじゃないかな。そのひとを失ったことを。あいつだって、ある意味ではあのひとの特別な存在だった。あいつが生きてる限り、あの人も死なない。それは彼女と先生ならそう思うんだろうけど、あいつは多分違うと思う。なんとなくだけどね」

「あんたの言ってること、よくわかんないわ」

「うーん、僕もホントはわかってないと思うけど。復讐じゃないんだと思うんだ。あのひとを失った復讐とかじゃなくて、あのひとの生前の願いを貫こうと……そんな気がするんだ」

 頼りになりそうにない少年は、自信がなさそうな声で、しかし、はっきりと告げた。
 少年は、少女の番の相手だ。
 もうどこにもいない研究者たちが、遺伝的に組み合わせたカップリングだったが、番という意識は、ほとんど本能に等しく互いに刻まれている。
 この場にいる子供たちは全員がそうだ。
 人工的に作られた生物。
 それでも、彼らは人間だった。死に瀕したこの星を継ぐ者は彼らしかいない。
 世界は、ずっと昔に滅んでしまったのだ。
 どんな不自然な形にせよ、その自然自体が失われた今、実験動物扱いだった彼らこそが、この星の希望なのだ。
 少女の将来の夫となる彼の髪は、この大地のように、どこかくすんだ乾いた赤をしている。
 背中の半分まで伸びた真っ直ぐな髪が風に吹かれ、少女よりも女の子のような幼く可愛らしく見える顔を隠していた。
 生まれたときから―――いや、遺伝子調整段階から伴侶として定められていた少年を、好きとも嫌いとも思えないが、時々こいつには勝てないと思わせられる。
 それが腹立たしいときもあり、誇らしいときもあった。
 自分たちは、これからこの地表で生きていく一族の指導者となるべく調整された番だという。
 そんなことは関係なく、今はただ、側にいてくれることに救われている気がした。

「帰ってくるわよね」

 今、あの場所で始まろうとしているのは、彼らの種族の最初の番同士による殺し合いだ。
 プロトタイプの実験のために、あのふたりは、後継の自分たちより、遥かに強い戦闘力が与えられている。 
 ふたりとも戻ってはこないかもしれない。
 その思いを言葉にはできなかった。
 言葉にしてしまえば、取り返しがつかないような気がしたからだ。

「……帰ってくるといいね……」

 婚約者の少年は、断言してくれなかった。
 それでもよかった。
 否定はされなかったのだから。
 彼女は知っていた。この少年が、あの場所で獣化して佇む孤独な青年に憧れていることを。
 焦がれているのは自分も同じだからよくわかっている。彼女が憧れるのは、傷ついた獣のような強い瞳の少女だったけれど。
 きっと同じなのだ。
 自分たちの想いは。

(帰ってきて。私たちのところに……)

 待っているから。みんなあなたたちを待っているから。
 いっしょに生きよう。

 少女はただ、祈り続けた。
 すでに存在すら忘れられた、何かに向かって。






2004/7/1 改稿


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