深淵に棲む魚 第2話






 副会長の春日が死ぬその日の明け方、里真は夢を見た。


「つめた! なにこれ水?」


 水の中なのに息ができることを不思議に思う前に、その冷たさに驚いて、里真は体を抱きしめた。
 水で満たされたその空間は、どこまでも闇が深く、自分の手さえよく見えない。
 だが不思議と心細くはなかった。
 その時誰かの声を聞いた気がして振り返ると、そこには見知った姿があった。


「まーちゃん?」


 親友の柏木麻琴が、だまってこっちを見つめている。
 自分の姿さえ霞んでいる闇の中で、麻琴の姿ははっきりと見えた。


「憎くはない?」


「まーちゃん、何言ってんの?」


 唐突に意味の分からないことを言う麻琴に、里真は少し怯えた。


「憎くはない?」


「だから、何が!?」


「全てが」


 怖くなった里真が叫ぶと、麻琴は仏像のような笑みを浮かてそう言った。




「まーちゃん!」


 名前を呼んだ瞬間、里真は自分が布団の上にいることに気がついた。
 アイドルのポスターが何枚も貼られた見慣れた黄ばんだ壁と天井。床には脱ぎ散らかされた服が、昨日のままにある。


「夢? あれが?」


 恐ろしいほどリアルではあったが、水の中で話しができるわけがないのだがら、あれは夢に違いない。
 だが、ただの夢とも思えない。
 里真が息を吸い込むと、目覚まし時計のアラームが鳴った。
 もうすぐあいつが起きる時間だ。
 ちっと舌打ちをすると、里真は急いで身支度をした。
 居間にいくと、まだ窓にはカーテンがかかっている。
 ほっとして、牛乳をコップに注ぐと、一息に飲み干して、歯を磨くために洗面所に向かう。
 鏡を見ると、疲れた表情の幼さをにじませた少女が映っている。
 里真は外に出る時は濃いメークをして派手に見せているが、素顔はむしろ可愛らしい方だ。驚くほどの美少女と言うわけではない。それでもかなり整った顔立ちをしているのは確かだ。
 それでも里真は自分の顔が嫌いだった。
 里真の母は派手な男性遍歴とは逆に、いつも素顔風のメークをしているから、その母に似ている自分が嫌でたまらなかった。
 だから厚い化粧で自分を誤魔化している。
 いつものとおりにメークをして、カバンをとりに居間に戻ったら、そこには絶対に会いたくない相手が立っていた。


「早いな、里真」


 里真は答えない。
 無視されても気にした様子もなく、目の前の男はニヤニヤと笑った。
 気持ちが悪い。
 そんな感想しか抱けない相手だったが、客観的に見れば、顔立ちも悪くないし、愛想もいい、好青年に見えるかもしれない。
 だが、最初にあった時から、里真にとっては、馴れ馴れしい気色が悪い男だとしか思えなかった。


「この時間だったら素顔が見れるかと思ったんだけど、まだ遅かったか。残念だよ。里菜さんに似てるって顔見たかったな」


「なんであんたにそんなもの見せないとならないのよ」


「あんたはないだろ。父娘なんだから仲良くしようよ」


 そう言われた瞬間に鳥肌がたった。
 もう一瞬でも同じ空間にはいられない。
 里真は携帯だけを掴むと、急いで部屋を飛び出した。


「今日は里菜さん遅くなるって言ってたから、早く帰ってこいよ」


 暗に何を言おうとしているのか気がついて、里真は今日は帰らないことに決めた。
 気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。
 義理の娘に色目を使ってくる母の夫。
 娘と五歳しか違わない若い男を夫にした母。
 すべてが気持ちが悪くて、里真は走りながら携帯を壊れるほどに握りしめた。


「憎いよ、まーちゃん」


 学校への道を辿りながら、そういえば夢のなかの麻琴は振袖を着ていたなと思い返した。
 水の中でもひらひらと揺れる、赤い振袖を憶えている。


「まーちゃん」


 お守りのように、里真は麻琴の名を繰り返した。




 闇の中で、ゆらゆらと水が揺れる。
 そこには薔薇の花弁が、浮くでもなく沈むでもなく静かに揺蕩っている。
 真っ赤な薔薇。
 それは大好きな花だった。
 近づくなと言われていた洋館に咲いていた花の中で、一番目を引いたそれを、遠くから見つめるしかなかった自分。
 あの子は、その花園の中で無邪気に笑っていた。
 それを憎いと思った。
 誰よりも大切にされ、誰からも愛されたあの子を、ただ憎いと思った。


 だから――――


 花弁が舞う冷たい水の中で、 赤い振袖を着た少女が笑う。


 遠い、遠い、昔のことだ。
 でも、片時とも忘れたことはない。
 きっとあの子も憶えているだろう。


「今度こそ逃がさない」


 少女は、ただ静かに笑い続けた。