柏木家の夕食はいつも遅い。
 遠方に複数の顧客を抱える母も帰りが遅いが、プログラミングの仕事をしている兄は、夜中まで帰ってこないことも多く、会社に泊り込みも、納期間近にはよくあった。
 この日も兄が遅くなると連絡してきたので、母と二人だけでハンバーグとカボチャの煮つけと野菜サラダという、おかしな組み合わせの食事を取った。


「今日、転校生がうちのクラスにきたんだけど、なんか変な男なんだよね」


「どんな風に? 麻琴みたいな感じ?」


「ちょ、なにそれ。お母さん。それじゃあ、私が変みたいじゃない」


「母さんも、麻琴はあんまり普通だとも思えないんだけど」


「ひど。それじゃ、お兄ちゃんなんてどうするのよ。あれは、生活不能力者っていうんじゃないの?」


 麻琴の兄の和樹は、家事一般が致命的に不得手だった。
 米をどの洗剤で洗うのかと聞かれたときには、麻琴は兄の正気を疑ってしまったくらいだ。
 掃除も、本人は片付けようとしているらしいが、どうみても散らかしているようにしか見えない。
 家にあまりいない母に代わって、柏木家の家事は麻琴が一切を取り仕切っている。


「お兄ちゃんは、仕事ができるからいいのよ。しっかりしたお嫁さん候補もいることだし、母さんは全然心配してないわよ」


「沙耶さんねぇ。確かに文句のつけようがないわ」


 兄の同僚で恋人である大木沙耶は、才色兼備を地で行くような女性だった。
 気の強いところはあるが、嫌味ではないし、押しの強いの人のほうが、あのボーっとした兄にはちょうどいいのかもしれない。
 麻琴も沙耶のことは大好きだった。
 ただひとつ不思議なのは、兄のようにぼんやりした男が、よく沙耶のような美人でなおかつ才女という誰もが放っておかないだろう女性を射止められたのかということだ。


「お兄ちゃんのことはいいのよ。あなたも年頃なんだから、ボーイフレンドのひとりぐらいいないの? すっかり所帯じみちゃって」


「誰のせいなのよ。沙耶さんがお嫁にくるまでは、お兄ちゃんとお母さんの面倒は私が見なくちゃならないでしょう。それに男の子ってあんまり好きになれないんだもん」


「子供だか大人だかわからないわねぇ」


「放っておいてよ、母さんこそ、そろそろ再婚考えたら?」


「お父さんよりいい男がいたらね」


「はいはい、ごちそうさまでした」


 麻琴に父の記憶はほとんどないが、母にとっても兄にとっても、忘れることのできないほど、いい男だったらしい。
 幼い頃から始終そのすごさを聞かされて育った麻琴には、父親が人間というよりスーパーマンのようで、まったく実感がわかない。
 結局その日は転校生のことも、智恵美のことも話す事はできなかった。






 その夜、麻琴は夢を見た。
 真っ暗な水の中に麻琴はいた。
 はじめは溺れそうになり、空気を求めて上に向かったが、どこまでも水面は見えなかった。
 息が続かなくなり、口を開けると、大量に水が入ってきたが、肺にまで水が入り込むと全然苦しくなくなった。


 息ができる。


 身体に感じる重みも冷たさも、確かに水なのに、麻琴は息をすることができた。
 溺れないと分かって、ようやく周囲を見渡すと、どこまでも闇が続くばかりだった。


 怖い。


 初めて麻琴は恐怖を感じた。
 落ち着いてみると、闇の向こうから誰かに見られているような気がした。
 どこまでいっても、暗い闇しかない。
 麻琴は夢の中で途方にくれた。
 これが夢ならいつかは覚めるはずだ。
 だが、身体を包む水の感触は、異様なぐらいリアルだった。
 冷たさに凍えて、麻琴はくらい水の中にしゃがみこんだ。
 夢はいつか必ず覚める。
 身体を抱えて、麻琴は夢が終わるときを待った。
 どのぐらい時間がたったのか、暗闇の中では時間の感覚がなくなっていた。
 気がつくと、小さな女の子が泣きながら抱きついてきた。
 赤い振袖を着た、髪の長い少女だ。


「や……やっと、みつ…け…た」


「あなた、誰?」


 水の中なのに会話もできることに、やっぱり夢だなと、麻琴は感心した。
 麻琴が少女に尋ねると、少女は泣き顔をさらに歪めて、大きな声で泣き出した。


「ど、どうしたの? どこか痛いの?」


 小さな子供にあまり会ったことのない麻琴は、慌てて少女を宥めすかした。
 しゃがみ込んだまま、少女の頭をなぜると、何故か温かく感じられた。
 それと同時に、誰かに見られているという感じも強くなって、微かに麻琴は震えた。


「……わすれちゃったの? おねえちゃん……わたしのこと、わすれちゃったから……おいていっちゃったの?」


 言われて見れば、少女の顔には見覚えがあった。
 どんなに思い出そうとしても、少女と会った記憶はなかったが、これ以上少女を泣かさないために、麻琴は嘘をついた。


「ごめんね。忘れてなんかいないから、もう泣かないで。もう置いていったりしないから。ね?」


「……うん……おねえちゃん、やくそくね。もうコトネをおいてっちゃやっ」


 そういうと、少女は麻琴にきつく抱きついてきた。
 なんともいえない愛情が麻琴の中から溢れてきた。
 この子が可愛くてたまらない。
 抱きしめずにはいられなかった。
 ぎゅっと抱きしめると、チクっと痛みが走った。


「いたい? いたい? ごめんなさい。ごめんなさい。ぜんぶとったとおもったの」


 少女はいつの間にか数本の赤い薔薇を持っていた。
 その棘が頬に刺さったらしい。
 さほどの痛みでもなかったし、少女に悪気があった訳ではないのだから、麻琴は笑って言った。


「全然痛くないから、大丈夫よ。キレイなお花ね」


「おねえちゃんのためにもってきたの。ほんとはもっとたくさんあったんだけど、おみずのなかでなくなっちゃって、これだけみつけてきたの」


「じゃあ、私にくれるの?」


「うん。おねえちゃんのための、おはなだもの」


 薔薇の花を受け取ると、少女は嬉しそうに笑った。
 その笑顔は、天使のようなという表現がよく似合う、可愛らしいものだった。
 麻琴もコトネと名乗る少女に笑いかけようとした時、水温が急に下がった。
 暗闇の濃さも増したような気がした。


「おさかなさんたちがわるいことしてるの。おねえちゃんもきをつけてね。このままだとおねえちゃんがみつかっちゃうから、コトネいくね。またあってくれる?」


 魚とは何か分からなかったが、この夢の中の少女にすっかり好意を持っていた麻琴は、大きくうなずいた。


「また会いましょう。コトネちゃん」


「おねえちゃん、またね」


 少女が消える瞬間、暗闇がざっと切れたように見えた。
 そして、その先に、麻琴は信じられない光景を見た。


「ちーちゃん!」



 それは手にナイフを持ち、両手を血に染めた智恵美の姿だった。
 智恵美に向かって手をさし伸ばした瞬間、麻琴は目を覚ました。


「夢……そう、夢だよね」


 頬に微かな痛みを感じて起き上がると、ベッドには真っ赤な薔薇の花びらが散っていた。
 花びらはすべて水に濡れていた。


「どうして? あれは、夢、夢だよね!?」


 麻琴の叫びに、答えるものは、誰もいなかった。




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