(変な女……変な女……変な女……?)
教室中に響く派手な音で正気に戻った麻琴は、苦虫を潰したような相手の表情と、じんじんと熱を持った右の掌の痛みから、自分が転校生の顔を平手で思いっきり叩いてしまったことに、ようやく気がついた。
転校生の言葉を頭が理解するより速く、身体の方が反応したらしい。
「えっと……ごめんなさい?」
「なんで、そこで疑問系なんだろうな。変な女」
「……っ! また言った! ひっぱたいちゃったのは、私にもよくわからないけど悪かったわよ。でも、初対面の挨拶がそれってないんじゃないの! 私のどこが変なのよ!」
外見は、ここでは浮いているがごく普通のはずだし、挨拶しただけで性格がわかるはずもない。
家庭環境に事情はあるが、彼が知るはずもないことだ。
では、自分のいったい何が変だというのか。
麻琴は激昂しきっていたが、冷静に考えれば、それほど腹を立てる台詞でもなかったはずなのに、何故か転校生の一言は、麻琴の触れられたくない部分を深く抉ったようだった。
(……変な子供……)
どこかで、誰かの声が聞こえた気がした。
遠い昔に、そんな言葉を聞いたような気がする。
その言葉は、とてもつらく悲しかった。
だからおそらく、麻琴が怒っているのは、過去の記憶に対しての過剰反応だった。
この時の麻琴には、それに気付く余裕がなかったし、そもそも憶えてもいない昔の記憶だ。
怒りを向ける対象は、目の前の転校生以外いなかった。
「あんなたのそれは、反射か……やっかいだな。自覚がないのか。この教室であんたを普通だと思ってるやつはいないぞ。たぶんな」
「きょ……今日来たばかりで、そんなことわかるわけないでしょ! なによ、その根拠は!!」
「周りを見てみろよ」
言われたとうりに周囲を見渡すと、驚いてはいるが、成り行きを面白がっている顔しかなかった。
里真の顔だけが蒼白で、それも麻琴の行動が信じられないというよりは、その身を案じる切羽詰ったような泣きそうな顔だ。
担任だけが、樹脂で固めたように凍り付いていた。
「普通の反応じゃない。それがどうしたのよ」
「処置なしか。確かにあんたにとってこれは普通の反応なんだろうが……普通のの女は、俺のような得体の知れない転校生に、それこそ普通に声なんてかけないし、変だと言われて間髪おかずに平手もよこさないんだよ」
言われてみればそうかもしれないが、自分のことを得体の知れないと平然と言う転校生だって変な男だ。
「周りの反応については、説明してもあんたにわかるとも思えないから説明ははぶくが、あんたは自分が変な女なんだと自覚した方がいい」
「さっきから聞いてれば言いたいほうだい……そんなに私が気に入らないの? だったら、先生に頼んで席変わってもらうわよ!」
こんなことを、転校初日の男子生徒に言われる筋合いはないはずだ。
「危険だからさ。自覚があるのとないのとでは、被害の度合いが違う」
「被害? なんのことよ!?」
「忠告だよ。夢に気をつけな。夢の誘惑は甘美だが、それは本物じゃないことを忘れるな」
夢が現実じゃないのはあたりまえだ。
さすがに麻琴は転校生の頭がまともじゃないことに気がついた。
(なによこの人、妄想癖があるのかしら)
麻琴の考えがわかったように、転校生は苦笑した。
「吉凶を併せ持った、あんたは特別な女だよ。自覚さえあれば、凶を吉に変えることも可能だ。ただし、無意識ほど恐ろしいものはないんだ。周りのためにも、あんた自身のためにも、早く自覚するんだな」
言っている意味はわからなかったし、何かをはぐらかされたような気分だったが、麻琴が落ち着いた頃にようやく担任が正気に戻って叫んだ。
「何をやってるんだ、お前たち!」
(何って……なんだったのかしら)
説明に困って隣の席を見ると、転校生は机に突っ伏して眠っていた。
狸寝入りではなく、安らかな寝息が聞こえてくる。
(何なのこの男!)
こんな男に変呼ばわりされるなんて絶対ありえない。教師の叱責も忘れて麻琴は理不尽さに怒りを覚えた。
「お前らは、俺を莫迦にしてるのか!」
しまった本気で怒らせてしまった。
どうやって宥めようかと考えていると、教室の後ろの扉がガラッと音を立てて開いた。
麻琴が気にしていた智恵美だった。
「大丈夫なの、ちーちゃん?」
麻琴がかけよると、智恵美は不思議そうな顔で平気よと小さな声で答えた。
平気なわけがなかった。
元々白かった顔は、透けるように青白くなっているし、勝気で神経質そうないつもの表情ではなく、視線の焦点があっていない夢を見るような目をしている。
「保健室戻ろう。ついていくから」
「平気だって言ってるでしょう!」
腕を振り払われて、麻琴は呆然とした。
麻琴のお節介に時々文句を言うことはあっても、智恵美に本気で拒否されたことは一度もなかったのに。
立ち尽くした麻琴を無視して、智恵美は自分の席に戻ると、教師に遅れたことを謝っていた。
「ああっと。うん……ああ。もう大丈夫なのか、国本。無理はしなくていいんだぞ」
「ご心配おかけしました。もう平気です」
見たところ、智恵美は本当に元に戻っていたが、麻琴は何かが違うと感じて怖くなった。
(ちーちゃん……?)
こんな智恵美は知らない。
怒りの矛先を見失って、担任の佐東は麻琴を怒鳴りつけた。
「はやく席にもどれ、授業をはじめるぞ!」
まだ自分を取り戻せずそこに立ち止まっていた麻琴を、里真が素早く席まで連れもどす。
なんだが、里真はとても怒っていた。
「だから、委員長なんて気にすることなんてないって言ったんだよ。まーちゃん甘すぎ」
「稲ちゃん、でも……」
「いいから、今は席にもどろ」
この騒ぎの中でも、転校生は目を覚まさなかったらしい。
なんて、暢気なんだろうと麻琴はボーっと考えた。
転校生のことも、授業も、もうどうでもよかった。
何かが変わってしまった。
それだけが、麻琴を寄る辺ない不安に突き落としていた。
いつの間にか目を覚ました転校生が、智恵美をじっと見詰めていることにも、その時の麻琴は気がつかなかった。
確かに、この日何かが、取り返しのつかない変化をしてしまった。
だがそれを麻琴が知るのは、もうしばらく後のこととなる。