第一章
1
悪夢の山脈と呼ばれる険しい北の大地に、黒い石造りの神殿がひっそりと佇んでいることを知るものは少ない。
磨きあげた黒曜石のような黒い石は、よく見れば、あらゆる所に隙間なく封呪が彫りこんであり、窓ひとつない八面の壁の北東に面した扉だけに、銀色の飾り文字で聖句が刻まれていた。
刻まれた言葉は誓約だった。
遠い過去からの、未来へ向けられた切なる願い。
守られなかった誓いを、神殿は今も待ち続けている。
五千年のときが過ぎようとする今も変わらずに。
神殿は、扉を開くことができるただひとりの存在を、いつまでも待ち続ける。
この聖句を神殿に刻んだものは、約束が果たされることを、本気で信じていただろうか。
伝説は語る。
悪夢の山脈には、魔王が眠っていると。
願いは真実だった。
だが、伝えられることのなかった事実は、誰からも忘れ去られ、静かに朽ちて行く。
神殿の存在も、一部のもののみに伝えられ、決して語られることのない伝説のひとつであり、すでに風化して消えつつあるもののはずだった。
――彼が、目覚めさえしなければ……。
2
豪奢な屋敷の隠された一室で、赤子の元気な産声があがったのは、煌々として満ちた赤い兄星が天空の中央に差しかかった真夜中のことだった。
町全体がくすんだ茶色をしている田舎の町並みの中で、白い石でできた大きな屋敷は、星明かりに照らされて、幻想的で現実感を欠いた印象を見るものに与えていた。
赤子が生まれた部屋の窓には、透明なガラスの板がはめ込まれていた。
一枚板のガラスは、未だに特殊な修練を必要とする高度な技術で、ものによっては貴石以上に高価で貴重なものだ。
オアシスを囲む二重の壁の内側に建ち並ぶ建物の中で、窓にガラスを入れているのは、小さな神殿とこの屋敷しかなかった。
屋敷の次に大きな建物である魔術協会でさえ、木の板で隠されただけの普通の窓だ。
もっとも、新しい技術を軽視する傾向がある魔術協会は、わざとガラスの窓にしないのだが、ガラスの窓や、干しレンガではなく白い大理石でできた壁を見ただけでも、屋敷がどれほど裕福なものか想像がつくだろう。
防壁をかねた砂避けの高い壁が、町並みと同じく螺旋(らせん)を描いていた。
その中心に大きな湖のようなオアシスがあり、屋敷と神殿はオアシスを挟んでちょうど真向かいに建っていた。
神殿は屋敷と同じ石造りの建物だが、使われているのはそれなりに高価ではあるがどこでも手に入るもので、薄い緑色のタイルが張られている。
ちなみに魔術協会は、町のはずれの門の近くに建っている。材質もすべて自然のもので、殆どを魔術の力のみで作りあげられ、維持されているのだ。
赤子の泣き声は、屋敷の屋根裏から聞こえていた。
一本の長い蝋燭が、思いのほか広い部屋を照らしている。
遥か東方の迷いの森の奥にあるという異国風に統一された贅沢な調度品と、異様な人影が、揺らめく焔に照らされて浮かび上がった。
その姿は、まさに異様としかいいようがなかった。
老婆である。
萎んだ果実のようなしわしわで小さな頭と、樽のように膨らんだ身体をした老婆は、臍の緒を切ったばかりの赤子の小さな身体を、濡れた布で拭きながら、皮袋から空気が漏れたような奇妙な笑い声を立てた。
「ほんに、元気な子じゃのう」
薄暗い明かりの中で、赤ん坊を抱き上げる老婆の姿は、知らないものが見れば魔女のようであったかもしれない。
実際の魔女が、老婆のような姿をしているわけではないが。
気味が悪いことには変わりはない。
「月も満ちぬのに陣痛が始まったと聞いた時は肝を冷やしたが、あんたも子供も無事で一安心じゃ」
垂れ下がった皺に隠された目を綻ばせて、腕に抱いた赤子の顔を覗き込む。
「ちょっと、ババさまったら、いいかげんにその子返してよ」
寝台から身を起こした、まだ幼いといってもいい少女は、頬を膨らませて言った。
「あんなに苦労したっていうのに、まだ顔も見せてもらってないんだからね」
年のころは、どう見ても14か5。寿命が五百年ある長命種である聖王国の王族だったとしても三十を越えてはいないだろう。勢いよく両手を差し出す仕草も、甘えて拗ねたような高い声も、どれもが子供じみていて、とてもではないがお産を終えたばかりの母親には見えない。
「苦労というほどのことかい。倍の時間がかかっても、まだまだ安産じゃぞ、エトル」
「すっごく、痛かったじゃない!」
老婆の腕から奪い取った赤子を抱き寄せて、エトルと呼ばれた少女は、ますます顔をしかめた。
負けず嫌いの子供のような表情には、疲労の影も見えない。
「あたりまえじゃ。お産は痛いものと決まっておる。おぬしもそうやって生まれてきたんじゃ」
エトルのあまりの元気さに脱力して、老婆はベッドの横に腰掛けた。
早すぎる妊娠と出産。
お産で死ぬものは、今でもまだ少なくないというのに、この娘の丈夫さと来たら、もはや呆れるしかない。
老婆が座った途端に、ベッドがズシっと音を立てて沈んだ。
客用の椅子ぐらいなら、この屋根裏部屋にもあるのだが、老婆が座れるほど大きなものは屋敷中探してもないだろう。
客間の長椅子でも脚がもつかどうか。
老婆はそれほど巨大だった。
「そんな端にいたらベッドが傾くじゃない!」
そう叫んで、エトルは寝台を飛び降りた。
いつの間にか泣き止んだ赤ん坊が、必死の様子でエトルの胸にしがみついている。
「この坊は母親似じゃな……」
わざとらしく大きなため息をつくと、老婆は首を振った。
お産が終わったばかりの身体に普通できることではないし、普通はこんな行動には出ないだろう。
呆れる老婆に向かって舌を出すと、エトルは我が子の頬を指で軽くつついてみた。
「ぷにぷにしてるけど、なんか猫みたいよね」
乳を吸うのに夢中な赤子は、母親の邪魔を無視して喉を鳴らしている。
老婆の呆れたような視線も、エトルは気にならないらしい。
しかし、エトルの年頃で、裕福な商家の一人娘として甘やかされ、なおかつ町の子供たちと同じように転げまわって育ったのだから、このような娘に育ってしまったのも無理はないのかもしれない。
老婆がエトルと同じ年頃の娘だった時代とは違うのだ。
そうは思っていても、母親になったのだから、それなりの態度というものがあるだろうにという気分は拭えなかった。
そんな老婆の気も知らず、エトルは満足そうな笑みを浮かべて呟いた。
「どんな子か、ちょっとばかり心配だったけど、あたしに似てかわいいじゃない」
確かに生まれたばかりの子供にしては、本当に可愛らしい赤子ではあったが、胸を張って言うエトルを見ていると、どうにも不安がつのってくる。
これからは、もうエトルは甘やかされた日常をおくることはできないのだ。
本当にこんな幼い少女に子供が育てられるのか、老婆は心配でならなかった。
「ババさま、これ、お礼よ」
ふかふかのベッドに沈んだままで悩んでいる老婆に向かって、エトルは耳につけていた耳飾りの片方を放り投げた。
耳飾りは、大きな真珠のピアスだった。
純金で縁取られた真珠は、歪みがない美しい光沢の珠で、海のないこの砂漠の国では値がつけられないほど高価なものだ。
この片方のピアスだけで、老婆は一生暮らしていけるだろう。
「こんな高価なもの、受け取れるわけはないじゃろが」
高価で貴重であっても、金に代えられないものをもらっても意味がないということだ。
エトルの父は、この国では名の知れた商人にして、この町の町長でもある。
どこで売り捌いても足がつく。
とてもではないが、持っているだけでも老婆は肝が冷えた。
「流露についてから売ればいいじゃない。あそこまで行けば、お父様なんて関係ないしね」
エトルも老婆が遠慮しているとは考えなかったらしく、笑いながら言った。
「値はだいぶ下がるけど、流露でも十分それは高値で売れるし、なにより簡単にお金に変えられるわよ」
この世界には、4つの聖王国がある。
東に煌沙(こうさ)、中央に風羅(かざら)、西に双樹(そうじゅ)、南に流露(りゅうろ)。赤き兄星から降り立った4柱の精霊の子によって興された国だと伝えられている。
流露は良質で粒の大きい真珠が特産物として広く知られており、流露産の真珠といえば、最高級品の代名詞とまで言われていた。
エトルが無造作に投げたピアスも、流露産のものである。
そして、その緻密で優美な細工は、装飾と工芸品で名の知れ渡った風羅の職人が、エトルの母のために細工したものだ。
これならば、真珠の産地の流露においてさえ高価なものであろうことは、老婆にも疑いようがなかった。
「こんなことにばかり頭がまわるじゃから、お父上も気の毒にのう」
エトルが投げてよこした耳飾りは、エトルの十四歳の誕生日に、母の形見として父から贈られたものだ。一年ほど前のことである。
早くに妻を亡くし、一人娘を溺愛していた父親のカザルだったが、その価値すらわからない幼い娘に高価な贈り物をするような真似はしなかった。
彼女がいつも誕生日に贈られてきたものは主に実用品や服などで、それも厳選されたものではあったが、けして華美なものではなかった。
風羅と呼ばれるこの国では、十四歳が成人とされている。
遠い昔は、この歳に嫁ぐ娘が多かった名残である。
妻の形見の真珠の耳飾りは、父親からの成人した娘への特別な贈り物だったのだ。
エトルにとっても特別だろう耳飾りを老婆に渡したのは、老婆がエトルにしてくれたことと、これからしてもらうつもりでいることに対する代償のつもりなのかもしれない。
「やれやれ……、やはり、気を変えるつもりはないようだね」
「これで止める気なら、最初からこの子を産んだりしないわよ」
強情そうな目を吊り上げて、エトルが言った。
「ババさま、代金受け取ったんだから、ちゃんと協力してくれなくちゃ信用に関わるわよ」
「手伝ったことがばれたら、信用を失うどころか牢屋行きじゃわい。そもそもわしゃ産婆で、何でも屋ではないんじゃ」
「何でもしてるじゃない」
「成り行きじゃ!」
怒ったように老婆は言ったが、本気ではなかった。迷惑なことは確かだが、エトルの力になりたいとは本気で思っていた。
ただ、これからの苦労を考えると、いくら文句を言ってもいい足りないぐらいだと老婆は考えている。
実際誰が聞いてもそう思うだろう。
これからエトルが仕出かそうとしていることを聞いたら、誰もが老婆の苦労を労わってくれるはずだと老婆は確信していた。
「あのとき取り上げた小さな赤子が、まさかこんな風に育つとはのう」
未熟児で生まれたエトルは、本当に小さく、病弱で何度も死に掛けた。
エトルが高熱を出すたび、薬草を調合して屋敷に通ったものだ。
虚弱だった子供の頃の面影を払拭したエトルは、光り輝く白銀の髪と、好奇心と強い意志に満ちた深い紫の瞳と、黄金色の肌の健康な少女に成長した。
病弱だった母親とそっくりな容姿でありながら、亡くなった母親の望みどおり、彼女を見守ってきた父親や町の人間の願いのとおりに、生命力に溢れた若木のような少女に――――――。
がっくりと肩(どこがそうだかはわからないが)を落としながらも、老婆はしっかりと耳飾りを懐にしまいこんだ。
ならば、この耳飾りは、エトルの母親との約束の証として受け取っておこう。老婆はそう考えた。
「この子はあたしの子なんだから、あたしが育てるのは当然のことじゃない。絶対どこにもやったりしないんだから」
自分に言い聞かせるようにエトルが言った。
決意を新たにするように、大きな紫の瞳が濃くなっているのが、薄明かりの中でもわかった。
「それが許されないっていうなら、つれて逃げるしか手はないでしょう?」
「言うほど容易いことではないよ」
「承知の上よ。だって、約束したんだもの。この子を守るって」
エトルは決して父親の名をあかさなかった。
父親のない子を身篭ったと、少女が尋ねてきたのは半年も前になるか。出産したらすぐに家を出ると言って聞かない少女を説得することは、ついにできなかった。
サナルの町は砂漠のオアシスである。
少女が赤子を連れて、どこへもたどり着けるはずもない。
だが、エトルの決意は一筋も揺るがなかった。
この気の強さは誰に似たのか、老婆は不思議でならない。
風羅は商人の国であり、遊牧民の国であり、傭兵の国である。
遠い昔に存在した風と草原の聖王国は、今では伝説であり、かろうじて国の名が伝わるばかりで、広がるのは緑の海ではなく、不毛な砂漠だ。
それでも、その血を受け継ぐものたちは、この地で生き延びてきた。
風羅には政府と呼べる存在がない代わりに、網の目のように広がった商人ギルドの繋がりが、国という体裁を支えている。
王政ではなく、ギルド評議会によって政治は動かされているのだ。
エトルの父もその評議会の一員である。
このような政治形態を持つ国は、風羅しか存在しない。
伝説によれば、今も風羅の王都はどこかに存在するという。
だが、五千年も前に風の中に消え去ったという王都の存在を信じるものは少ないし、また消えてしまった王都のせいで起こった混乱を鎮めたのが商人たちであったことから、風羅では身分というものへの反感が強く、かつての貴族は、風羅では白眼視される存在だった。
貴族の血を引くということは、風羅では引け目でもある。
裕福な商人や、腕のいい職人の方が、よほど尊敬されている。
貴族は何も生み出さない、風を自由に支配したといわれる力も、王族のみがもつ力で、それは王都の存在と共に失われた。
風羅の王族は背に翼を持っていたという。
それもまた伝説である。
エトルの母親は、今では珍しくなった生粋の貴族の娘だった。
没落しながらも、聖王国の貴族の純血を守ろうとした彼らは、結局は金のために娘をエトルの父親に売り渡した。
そもそも、この頃には、純血を守れる相手が存在しなかったというのも理由のひとつだろう。
だが、結果的にこの結婚は上手くいった。
時の流れの違う二人は、それでも静かに愛をはぐくみ、両親に望まれてエトルが生まれたのだ。
一五年前、やり手で知られる屋敷の当主は、老婆の手を握って涙を流した。
母子共に危険だといわれた末の出産だった。
あの日のことを、老婆はよく憶えていた。
もともと病弱だった奥方は、それから何年もたたずに亡くなった。
無理な出産のためもあっただろうが、そもそも長く生きられる身体ではなかったのだ。
純血の貴族としては四十歳、平民にすればまだ成人したばかりだろう若すぎる死だった。
物静かで、儚い印象の女性だったことを憶えている。
エトルの容姿は、その色彩までも母親とよく似ている。
風羅の王家の血を引くものに特有の、銀髪と紫の瞳、そして黄金色の肌だ。
それにしても、中身が違うと、ここまで印象が異なるものなのか。
赤子に乳を含ませているエトルを見ていると、そう思わずにはいられなかった。
正直に言えば、エトルは母親とは正反対の性質の持ち主だ。
奥方に生き写しの姿でありながら、エトルからは強い生命力が感じられる。
それは、奥方にはなかったものだ。
元気に育って欲しいと、それだけを願っていた彼女の願いが天に通じたのかもしれない。
それに、これは魔術師と神官の両方の言葉だが、エトルは生まれながらに強い風と水と火の精霊の守護を受けていた。
風羅では、風の守護を受けた子供は、珍しくない。
他の国に生を受けたものに比べれば、格段に多い方だろう。
だが、四大精霊のうち、その三つもの守護を受けた子供など、前代未聞だった。
エトル自身には、精霊を感じる力がないことがわかるまで、エトルは神殿と魔術師協会の争奪戦の的だったのだ。
それも今は落ち着いたが、純粋に才能がものをいう魔術師と違い、修行しだいでは霊力を得られる神殿は、まだエトルのことを諦めてはいない。
町の最高実力者である父親の反対がなければ、エトルは中央神殿の上級正神官にもなれたかもしれない。
この赤子はどんな人間に成長をするのだろう。
父親を知らず、まだ幼いといってもいい若い母親の下で、子供はどのように成長するのか。
老婆は子供の先行きが不安でならなかった。
母親が亡くなった時、エトルは5歳になったばかりだった。
幼い娘を不憫に思った父親の溺愛は、町中に知られるほどで、あるいはそれがよくなかったのかもしれない。
エトルは少年のように、奔放で、無鉄砲で、過激な少女に成長してしまった。
幼い頃病弱だったこともあり、エトルの行動は多くの場合、大目に見られていた。
町の子供との付き合いも同じである。
エトルは同じ年頃の少女より、少年たちと同じ遊びを好んだ。
中央の評議会の一員でもある大商人の娘を咎められるものはなく、良家の子女でありながら、エトルは野生児のようだった。
女が財産のひとつと考えられ、ほとんど自由を与えられない国で、エトルの奔放さは良くも悪くも評判だった。
顔を隠していない未婚の娘など、エトルぐらいしかいない。
そんな許されないはずの我侭も、エトルは通してきたのだ。
勉強熱心で好奇心が強いエトルが、ただの我侭なお嬢様ではないことを知っていても、育て方を間違ったような気がする老婆だった。
「逃げ切れるかねぇ」
追ってはすぐにかかるだろう。
この場所に産婆である老婆以外いないのは、エトル自身の希望でもあったが、娘の妊娠という不祥事を隠そうとした父親の配慮である。
父親が娘の異変に気がついたとき、エトルの身体の中で、赤子は堕胎が不可能なまでに成長していた。
それからは、療養としょうして、屋敷に監禁である。
今まで娘の我がままを許してきたことを、今になって屋敷の主人であるカザルは後悔したのかもしれない。
せめて父親の名を娘が告げてくれたなら、結局は娘に甘い父親のことだ、生まれた子供をすぐ養子にして、すべてをなかったことにするなどという強引な手段にはでなかったかもしれない。
どんなに執拗に問い詰められようと、エトルは腹の子の父親について、一言も語らなかった。
ただ、この子を産むと約束したのだと繰り返した。
これでは、カザルが許せるはずもない。
逃げたとしても、エトルはエドファン家の一人娘だ。
評議会の一員であり、代々この町の町長を務めるエドファン家は、神殿以上の発言力を持っている。
町の人間は総出で追ってくるはずだ。
「本気で追っかけたりしないわよ」
何の迷いもなく、エトルは断言した。
老婆は訝しげに少女を見上げた。
「どういうことだい?」
急に呼び出されて、引きずられるように連れて来られたので気にする余裕もなかったが、いくら娘の出産を表ざたにしたくないとはいっても、手伝いの使用人ひとりよこさず、老婆だけに娘を預けたカザルの態度はおかしかった。
あらためて屋敷の様子を窺ってみると、なんだか屋敷中がひっそりと静まり返っているような気がする。
人の気配がしないのだ。
老婆は首を傾げたが、とりあえず先のことをエトルと相談することにした。
夜明けまで、そう時間は残っていない。
「夜が明ける前に町を出ないといけないね。なにせ急だったから万全とは言いがたいけど、準備はしておいたよ」
準備だけなら半年も前からいつでも大丈夫なようにしてあった。
ただ、それが今日だとは思わなかっただけだ。
生み月にはまだ間があったはずだったのだ。
早産の赤子は、月が満ちて生まれた子供のように元気ではあったが。
横に広がった体をゆさゆさと揺らして、老婆は赤ん坊を抱き上げた。
満腹になって眠ってしまった赤子からは、微かに母乳の匂いがした。
老婆に赤子を渡すとき、エトルはしばしためらったが、すぐにこわばりをといて笑って見せた。
「ババさま、私の赤ちゃん頼むわね」
「すぐに迎えに来るから、ちゃんと準備しとくんだよ」
「とっくにできてるわよ」
老婆が言うと、エトルは茶目っ気たっぷりの笑顔で答えた。
「あとは身支度だけね」
そう言うと、腰まで伸びた髪を、ナイフの鋭い刃先でぶっつりと切った。
薄い茶色の敷物の上に、長い銀色の三つ編みがどさっと音を立てて落ちた。
最近、短髪の娘がいる国もあるというが、この国では長い髪は女の美の象徴であり、儀礼に欠かせないものだった。
長髪の男は珍しくないが、髪の短い女は罪人しかいない。
「なんてことをするんじゃ!」
息を呑んだ老婆は、しかし言葉を続けることはできなかった。
皮と麻でできた簡素な旅支度に身を包んだ姿は、月明かりの下で華奢な少年のようにしか見えない。
不揃いな波打つ髪も、元気な少年らしい髪型に見える。
今出産したばかりだというのに、女の匂いのしない身体は、まるっきりやんちゃな少年そのものだった。
「大丈夫。絶対に守ってあげるからね」
少年に身を変えた少女は、右の人差し指にはめてある文様の刻まれた銀色の指輪に唇を寄せると、何度も赤子に向かって言葉をかける。
そして最後に、小さく呟いた。
「ありがとう。お父様」
3
満ちた兄星が天の半ばに差しかかる頃、一体の美しい人形が目を覚ました。
一糸纏わぬ白い裸身は、均整のとれた優美さであたりの闇を圧倒していた。
長く伸びた黒髪が、風もない閉じた空間に揺れている。
闇を凝縮したかのような黒い瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。
精巧に作られた肉の人形は、その完璧さから、生身の存在とはかけ離れていた。
それは確かに人形だった。
動かない心臓、吐息を吐き出すことのない唇、それは命を持たないただの人形の証である。
《目覚めたか》
闇だけが支配する空間に、何者かの声が響き渡った。
それは空虚でありながら、圧倒的な意思の力を持った声だった。
いや、声といっていいものなのか、それは、肉声ではなく、精神に直接呼びかける意思そのものだった。
逆らうことを許さない絶対の意思にも、人形は反応を示さない。
それを気にするでもなく、声は言葉を続けた。
《これほど完璧な器を創れたとはな……》
声は自嘲するように笑った。
含み笑いに合わせるように、人形の長い髪が揺れた。
闇の中で輝く人形の真下には、小さな泉があった。
人形はその上に浮かんでいた。
《おまえに力を与えよう。我が血から生まれた闇の人形に相応しい力を》
唐突に、青白い炎が人形の身体を包んだ。
冷たくも見える炎が、人形の白い身体に吸い込まれて消えた。
そして、人形の瞼がゆっくりと下ろされ、もう一度開かれた。
黒かったはずのその瞳は、鮮やかな真紅に変じていた。
大きな切れ長の瞳に、今までとは違う冷たく鋭い光が浮かび上がった。
完璧ゆえに無機質だった青年の表情が、見るものを魅了する艶やかなものへと変化していく。
秀麗な容姿は、やはりどこか人形を連想させた。
だがそれは、なんと魅力的な人形であっただろう。
人形に恋をして命を失ったという青年の昔話も、この生きた人形を前にすれば無理もないと思える。
それほど、彼は美しかった。
「……父上」
意思を与えられた人形は、掠れた声で言葉を綴った。
その言葉がどういう意味を持つかも、青年には理解できなかったが、この声が自分にとってそう呼ぶべき存在なのだと、与えられた本能が教えてくれる。
《……そう。そうだな。私がお前の父ということになるのだろう。我が血と意思によって生まれたお前なのだから。お前の器を創り、命を与えた。お前は私の望みを叶えるために生まれたのだ。それがお前の存在する理由だ》
一方的な言葉にも、青年は逆らわなかった。もとよりそんな感情など与えられてはいない。意思を与えられようと、人形はどこまでも人形なのだ。
青年は艶然と微笑みながら頷くと、軽く手を振った。
どのような技なのか、長身に見合う無駄のない筋肉で覆われた均整の取れた裸身が、一瞬で身分の高い剣士の衣装に包まれた。
魔術ではあり得ない。魔術は奇跡を起こしたりはしない。
それは、魔王のみが可能とした古の業だった。
青年の服装は、遥か東の果ての聖王国煌沙の衣服だった。
立て衿の、一切の装飾を排した、簡素でありながら優美な服装は、青一色に統一され、青年の美貌を際立たせた。
この世に誕生したばかりの青年は、己に与えられた力の使い方も、それが与えられた理由も、教えられるまでもなく理解していた。
「鍵を探すには、多少時間が必要かもしれませんが、北の魔物の掌握と、白魔たちの復活を果たしてからということで宜しいですか? 父上」
反対されるとは、少しも考えていない声だった。
傲慢で冷酷な声は、あくまで美しく、それでいて空虚だった。
父と呼ぶ声そのもののように。
《好きにするがいい》
声の存在が急速に薄れていくのを青年は感じた。
《お前にはまだ名がなかったな》
気配が完全に消える寸前に、ひとつの言葉が青年の頭に響いた。
《それがお前の名だ》
静寂を取り戻した闇の中で、青年は自分の名を呟いた。
「凍夜……か」
冷たい闇を心地よく感じながら、凍夜と名付けられた青年は、名前の通り凍てつくような笑みを浮かべた。
4
何故目覚めてしまったのか。
狂気と狂喜の狭間で、彼はまどろみながら考えた。
永遠の眠りを許されなかった自分にできることは、繰り返すことしかない。
それは、分かっていただろうに、自分を消滅させなかったものの罪だと、彼は思った。
呪ってやろう、世界の全てを。
自分をひとりにした全てのものを。
どれほどの時がたとうと、決して許しはしない。
封じられていることに変わりはないが、己の血で作りあげた人形を通して力を振るうことも、千里を見渡すこともできる。
あれから何年がたったのか。
ほころびた封印から、ずいぶん時がたったことはわかっていたが、彼にとってその絶望と憎悪は、昨日のことと同じことだった。
ならば、今度こそ願いを叶えるときだ。
もはや彼を止める存在はどこにもいないのだから。
癒えることのない飢えを抱えたまま、魔性の王は乾いた笑みをこぼした。
(あのひとのいない世界に滅びを)
深い闇の中で、魔王の指にはめられた指輪だけが、銀色の光を放っていた。