夜に囁く歌
世界は壁で覆われている。
壁の外にある果てのない世界を憶えているものは、もうどこにもいない。
どういう理屈からか、見える空は青く、太陽も月も星さえ見えるのに、見えない壁は、閉じ込められたものたちを窒息させる。
ビルの隙間に見える、狭い空。
どこまでも続くように見える青はただの錯覚で、成層圏に到達する前に壁にさえぎられる。
箱庭の中の巨大な都市は、それでも不夜城としてそびえたっている。
街の名前は、トウキョウ――憶えているものは、もういないけれど……。
彼は夜は嫌いじゃなかった。
それがどれほど危険なものか、街を根城にする彼はこれ以上ないぐらい思い知っているが、日が沈むと、ようやく息がつけるような気がして、なんだか笑えてくる。
擦り切れたジャケットのポケットから缶コーヒーを取り出すと、鼻歌を歌いながらチビチビと安っぽい味を楽しんだ。
本物のコーヒーなんて、目の玉が飛び出るような贅沢はべつに欲しくなかった。
壊れた自販機から際限なく補充できる無糖コーヒーさえあれば、彼は十分満足だった。
どこかで恐怖や絶望に満ちた悲鳴が響き、魔物の息遣いや興奮が伝わってくるけれど、そんなものを日常にしてしまった都市では、彼が気に止めるようなことでもない。
どこかで聞こえた悲鳴に、小さな手が、彼のジャケットの裾を強く握った。
「怖いのか」
「…………」
そっけなく聞いてみても、答えは返ってこなかった。
「別に恥ずかしいことじゃないだろ」
闇を怖れぬものは、闇に呑まれる。
彼だって闇が怖い。
怖くて怖くて、だから闇と共に生きている。
そうやって、物心ついた頃から、彼もまたこの街で生き延びてきたのだ。
この街で闇から逃れることなどできはしないのだから、正面から向き合う方が、彼のような存在には楽な生き方だ。
ぴったりと彼に寄り添ったまま離れない子供の顔には、なんの表情も浮かんでいなかった。
それが恐怖ゆえであることを、彼にはよくわかっていた。
自分もそんな時期があったからだ。
全てを麻痺させることで恐怖から逃げているのだ。
それはこの街の住人たちに共通のもので、しょうがないことだとわかっていても、なんだか面白くない。
何も見ていない、ガラス玉の瞳――――
すべてを諦めてしまっている顔だ。
痛みも恐怖も絶望も、すべてを感じなくなれば、もうこれ以上傷つくこともないのだから。
だが、それではこの街では生き残れない。
「でも、それじゃあ……嬉しいことも楽しいことも――悲しいこともわからなくなるだろ」
自分の痛みが遠くなれば、他人の痛みもわからなくなっていく。
それがこの世界の人間が抱える、最も癒しがたい病の源だった。
現実の魔物の脅威よりも、そのほうがよほど恐ろしい。
この子供も同じだろうか。
かつての自分のように。
だけどあの日、人形のような子供は確かに言った。
助けて――――と。
「守ってやるよ。必ず」
答えがなくとも、聞いていることはわかっている。
ゴミ箱に空き缶を放り投げると、彼は男の子の手を強く握った。
「仕事だからな」
彼は照れたように、少し笑った。
それは何かを探していた。
何を探しているのか、それにも思い出せなかったけれど、探すことをやめられない。
夜になると、それの中から何かが溢れてくる。
空腹にとてもよく似ているけれど、いくら食事をしてもまったく満たされない。
それは、小さくて温かくて柔らかい獲物が好物だった。
味覚というものを持たないそれは、獲物が発する温かい気配がとても好きで、それをもっと感じたくて、不定形のアメーバのような体で押し包むと、そのうち獲物はすべてそれと同化してしまう。
同化してしばらくは満足したような気もするのだが、長く続くことはなかった。
小さな生き物を狙う魔物は多く、もともと数の少なかった獲物の数はどんどん減っている。
それは飢えていた。
とてつもなく飢えていた。
あまりに飢えによる苦痛が大きくて、自分が何かを探していることさえ忘れてしまったけれど、探したいという欲求と飢えが結び合って、それは求めるものがわからなくなってしまった。
今はただ、小さな生き物の温もりを全身で感じたかった。
そして、ひとつに溶けるのだ。
湿った管の中を、それはヌタヌタと這い回る。
その先に、赤い液体が流れる温かい生き物の匂いがした。
興奮で、体を振るわせるそれは、いつもの<音>を発した。
獲物には聞こえないその<音>は、小さな生き物を見ると、何故か勝手にでてくる。
発声器官も聴力も持たないそれは、自分が出している<音>がなんなのかわからなかったが、かまわない。
どうでもよかった。
温かい生き物と同化することさえできれば、他のことはどうでもよかった。
「ハンターってのがどういうものか知ってるか?」
供給所で食事をとりながら、彼は子供に尋ねた。
ひとり言のようなものだったが、彼は子供に話しかけるのを止めなかった。
供給所で配給されているのは、主に人肉から作られたたんぱく質のブロックだったが、彼も子供もそんなことは気にしなかった。
貴重な栄養源であることには変わりはないし、供給所の食料は安いポイントで手に入る。
「魔物と戦える唯一の存在とか言われてるけど、そんなたいそうなもんじゃない。突然変異の能力者を集めて、徹底的に狩人として教育した実利主義者の集団だよ。魔物に対抗して生まれたってのは、ホントかどうかわからないけど、ポイントさえつめばなんでもするってのは本当だな」
素質を持つものは多くないし、モノになるのはごくわずかときている。
組織的に子供を集めるハンター組合は、膨大なポイントを受け取ることで、純粋に仕事として魔物を狩っていた。
「俺は新米だけど、この街で生まれ育った生粋の下水道の子供だ。お前と同じだよ。下水道の子供たちは組織じゃ侮蔑の対象だけど、多くのポイントと時間のかかる訓練なしで即戦力になるから珍重はされるな」
育てられなくなった子供を下水道に捨てる親は多い。
その大部分は幼いうちに魔物の餌となる運命にあったが、ごくまれに生き延びるものもいる。
それが、下水道の子供と呼ばれる特殊能力者だ。
彼らは成長すると、魔物よりたちが悪い略奪者や殺戮者となるか、ハンターとなるかのいずれかの道を進むことになる。
「俺は運がいいほうだったから、今まで賞金首になるようなこともなく、ハンターに勧誘されてここにいるってわけ」
ジャケットのポケットからコーヒーの缶を取り出すと、彼は子供に缶を手渡した。
渡されたコーヒーをちょっと舐めると、無表情だった子供の顔がなんともいえない渋い顔になった。
「苦かったか? 悪いな。俺はブラックしか飲まないからさ。持ってないんだ甘いの」
顔をしかめながらも、少しずつ缶を傾けてコーヒーを飲み干すと、息を吐き出して子供は彼に聞いた。
「これ、どっから出してるの?」
「ん? ポケットからだけど」
半日ぶりに聞いた子供の声には、もう怯えの色はなかった。
変わりに苛立ちが混じった様子で、彼を睨みつけてきた。
「嘘つき。あんたのポケットには最初から何もないじゃないか。なのにどうやって缶コーヒーなんて出てくんのさ」
「うん、それはな……秘密だ」
そう言って彼が笑うと、子供は敵意を込めて無言で睨んでくる。
彼からすれば、これはいい傾向だった。
苛立ちでもなんでもいい。
何かを感じてくれれば、生存率はぐっと上がるからだ。
「あんた、ぼくをどうする気? ポイントなんて持ってないし、肉屋に売れるほど栄養も足りてないし、見た目もよくないよ。ぼくをあいつから守ったって、あんたに渡せるものなんて、なんにもない」
「ハンターが子供を人肉屋に売るわけないだろ。こっちはそれを黙認してるけど、名目上は取り締まる方だぜ。一応治安活動も仕事のうちなんだし。そのへんはボランティアだけど、信用を築くのも大事なお役目でね」
人肉屋とは、人間を商品とする組織の通称だ。
文字通り、食料として人肉を取り扱いもするし、臓器移植、愛玩用の人身売買など、手広く仕事をしている。
治安組織が存在しないトウキョウでは、ハンター組合がその代わりを務めている。
もっとも、特に助けを求められなければ、彼らの行為は大抵が見逃されているのが現状だ。
「だからぼくを助けるの?」
「だってお前、助けてって言っただろ。救いを求めるものには報酬にかかわりなく手を差し伸べるべし。ハンター規約だよ。あくまで建前だから、出世払いで報酬は払ってもらうけどな」
「……ほんとに、なんにも持ってない」
子供は俯いて呟いた。
それを気にもせず、彼は笑った。
「だから、出世払いって言っただろ。出世できたら払ってくればいいんだよ。生き延びて出世してくれよ。俺の生活のためにさ」
その言葉に、子供はようやく少しだけ笑みを浮かべた。
しかし、その次の瞬間、笑顔は急速に凍りついた。
「来たのか?」
「うん……近いよ」
子供の体が小刻みに震えている。
恐怖を麻痺させて耐えていたのが、彼に心を許したために、怯えが戻ってきたのだ。
「この街で生き延びるコツを教えてやるよ。あのな、怖がることは悪いことじゃない。怖いと分かっている方がより安全な道を選べる。でも、怖さに負けてしまったら、どこが道なのかも見えなくなってしまうんだ。だから、恐怖を殺そうとするな。恐怖に身を任せて、そして恐怖を自分のものにするんだ。抗うんじゃなく、飲み込んでしまえ」
「そうすれば、あんたみたいになれる? 強くなれるの?」
「俺は強いわけじゃない。でもお前を守ると約束したからな。俺は約束は守る主義なんだ」
彼は擦り切れたジャケットのポケットに手を入れると、子供を片手で抱えた。
そのままその場を飛び去ると、今いた場所に、ビルの上からアメーバー状の巨大な物体が落ちてきた。
半透明の生き物は、骨まで溶けかけた子供の死体をいくつも内包し、血液なのか、紫色の筋が全体に張りめぐり、その身体はまだらに赤く染まっていた。
「やっぱり、ただのスライムってわけじゃねーな。どう考えても指向性がありやがる」
「また歌ってるよ。ぼくを呼んでる」
感応能力を持たない彼には聞こえない歌を、子供は感じ取っていた。
それが、子供が今まで生き延びてきた力である。
だが、歌を歌い、子供ばかり狙うスライムなど、彼は見たことも聞いたこともなかった。
本来スライムは、下水道に多く生息し、水溜りなどに擬態して獲物を襲う。
獲物を選り好みし、まして取り逃がした獲物を追いかけてくるなどあり得ない。
だが、実際にそれが存在する以上、ただ敵として倒す以外にとるべき道はない。
ハンターは学者ではないのだ。
考えることは彼の仕事ではなかった。
「後ろに下がってな! 今、お前の恐怖を取り払ってやるからさ!」
ポケットに突っ込んでいた手を勢いよく引き出すと、そこには一振りの巨大な鎌が握られていた。
月さえ写す刃は、どんな材質でできているのか、青く透明でありながら、鏡のようだった。
巨大なスライムもどきは、子供に向かってなおその触手を伸ばそうとしている。
自分の身長より長い鎌を、彼は子供には捉えることのできない速さで一閃した。
両断された半透明の身体は、次の瞬間青い炎に包まれた。
「あ……あ……ああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」
怖れていた怪物の身体が炎に包まれた瞬間、子供は高く悲鳴を上げた。
感応能力がないはずの彼にまで、子供が聞いている声が聞こえた。
断末魔の悲鳴と、それは子守唄だった。
食欲と愛情が入り混じって混乱した意識のすべてが、子供に向けられていた。
炎が消え、消し炭となる寸前まで、優しい子守唄は聞こえ続けた。
おやすみなさい、愛しい子と。
「俺とくるかい?」
自分を狙い続けた化け物の死体の前で鳴き続けてい子供は、ぼんやりと彼の顔を見つめた。
あれがなんだったのか、彼にはわからなかったし、子供にもわからないようだった。
何故あんな生き物が存在したのか、考えてももう答えは出ない。
ただ、あれは子供を愛していたのだ。
取り込んで、食べてしまいたいほどに。
何故子守唄を歌えたのか、何故この子供を追いかけたのか、それももう永遠に闇の中だ。
「……どこへ……」
涙を拭いもせずに、子供は反射のように呟いた。
ぼんやりとした顔には、もう恐怖はなかったが、何か深い哀しみがあった。
「ハンター組合にさ。お前の力は戦闘向きじゃないが、探知能力が強いから、組織じゃ大事にされるぜ。俺よりもさ」
「……ありがとう。でもぼくいかないよ」
「なんで。衣食住は保障されるし、何よりもう魔物に怯えなくてもすむんだぞ」
言っては見たが、彼にも子供の言葉はわかっていた。
きっと、昔の彼なら同じ言葉を返しただろう。
「ぼくはこの街で生まれた。だからこの街で生きるよ。そして、いつかもし、あんたのように生き延びれたら、自分の力でハンターになりたいんだ。その時まで、待っててよ。報酬は、きっと払うよ。だから……」
その時まで、あんたも生きていてと、言葉ではない声が聞こえた。
「期待して待ってるぜ。これは、約束のしるしだ」
そう言って、彼はジャケットのポケットから缶コーヒーを取り出して、子供のほうに投げた。
「特別に、ミルクと砂糖入りだ。俺としてはレアだぜ」
「ねえ! ぼくはネズ! ネズだよ! あんたの名前は?」
大きな声で彼を呼ぶ声にも振り返らずに、背中を向けたまま手を振ると彼は答えた。
「俺はラキシア。ハンターのラキって憶えておきな」
東の空が白く輝いている。
長かった夜が、明けようとしていた。
2005/3/21