太陽に捧げる言葉
崩れかけたビルの屋上の扉を開くと、男の姿が目に入った。
ぼんやりと、しかし食い入るように、男は東の空を見つめている。
ひざを抱えて空を見上げる姿は子供のように頼りない。長い黒髪は艶がなく、その表情は絶望という一言で表せる。
そんな表情すら、絵になる男だった。
人にあり得ざる美貌は、彼のようなものにとっても珍しい。
錆び付いたドアに寄りかかり、男をじっと観察していた少年は、驚くよりも呆れた。
(オリジナルが、なにやってんだよ、おい)
ジーンズにTシャツというラフな服装にごまかされるほど、彼の職業経験は浅くない。
年齢からすれば、新米もいいとこだが、スラムの底辺を生き延びた実績は伊達ではないのだ。
ごく若い、美貌を除けば失意に満ちた普通の青年にしか見えない相手の危険性を、少年は嫌というほどよくわかっている。
彼らは、誇り高く、凶悪なまでに強く、始末に終えない。
相手にするには、分が悪い相手だ。
本来なら、係わり合いになりたくない相手だったが、彼は好奇心を抑えることがどうしてもできなかった。
声をかけてしまったのは、本当に思わずのことで、少年は自分の正気を疑った。
マトモな行為じゃない。
それでも、夜明け間近のこんな時間に、この青年が東の空を見つめる理由をどうしても知りたかったのだ。
そんなことは、あり得ないことだったから。
「よお、あんた! なにしてんだい?」
(莫迦か、俺は)
少年は自分の思考能力の低さに絶望した。
子供にしか見えない不用意な言葉に、男は不思議そうな表情で振り返り、しばらく彼の顔を眺めると、興味を失ったようにまた空を見つめた。
無視された彼は、ジャケットのポケットをごそごそと探った。
相手に敵意もなにもないのが、かえって気まずかった。
「夜明けを……夜明けを待ってるんだ」
青年は、突然ぽつりと言葉をこぼした。
「は?」
「うん。夜が明けるのをね。ここで待ってるんだよ」
「……あんたがか?」
正気なのかという意味を込めて少年は言った。
「なぜ、君はそんなことを気にするのかな。どうでもいいことだよ」
それは、確かにそうかもしれないが、あり得ないことを前にして、それを無視できるほど、彼はまだ世界に無関心ではなかった。
実年齢ほど彼は子供ではないが、やはり大人でもない。
そして、好奇心が強くなければ、今の仕事はできなかった。
もっとも、この街で好奇心が強いということは、常に死と隣りあわせだということをも意味したが。
何を話そうかと、少年は考えた。
沈黙が続いた。
ゆっくりとフェンスに近づくと、正面から男と目を合わせる。
杏に似た形のよい瞳は、硝子のように透明な緑色だった。
キレイだと、素直に思える。
「だって、あんた吸血鬼だろ」
ストレートに言うと、青年は不意をつかれたような曖昧な表情を浮かべた。
「わかるものかな。今の僕の魔力はひどく小さい」
「まあ、弱ってるのは、よくわかるよ」
「僕はそんなに凶暴そうに見えるかい?」
吸血鬼の恐ろしさは、吸血の行為や、その行為を媒介して増えることでもなく、強力な腕力と凶暴性にある。
日光に弱いこと、流れる水を渡れないこと、硫化アリルに激烈なアレルギー症状を持つこと、数ある弱点を考慮に入れても、吸血鬼は最強の魔物にあげられる。
「オリジナルと粗悪品の違いぐらいは、わかるつもりなんだけどさ」
「きみは、見た目どおりの子供じゃないんだね。吸血鬼に区別があるなんて、普通の人間は知らないよ」
吸血鬼という存在は、オリジナルとスレイブの大きく二つに分類される。
オリジナルが儀式と血縁でしか増えないことと、彼らが必ずしも吸血を必要としないことを知る者は少ない。
スレイブとオリジナルが同種であるのかどうかは、今でも疑問の声が上がっている。
オリジナルの方が格段に能力が上ではあるが、スレイブの持つ血液への狂的なまでの飢えと、凶暴性を彼らは持たない。
唾液に伝染性があるのもスレイブのみだ。
オリジナルには、スレイブに対する強い精神支配力があるため、吸血鬼の上位者として分類されているが、根本的に両者は異なっている。
「この街で15歳は子供とはいえねーよ。自分で餌がとれるやつは、もう庇護される資格はない。ま、俺には守ってくれる相手もいなかったけどな」
男は肩をすくめると、口元だけで小さく笑った。
「きみは、どうして僕に声をかけたのかな。その歳まで生き延びられるほど慎重なら、絶対にかかわるべきじゃなかったと思うけど」
この街は、弱いものが生きていくには過酷過ぎる。
子供は魔物だけではなく、同じ人間からも狙われる獲物に過ぎない。
人肉は貴重な蛋白源だ。
柔らかな子供の肉は、工場でも高値で取引されていた。
「暇だから……かな。生き延びるだけが目的なら、この街を出ればいいんだ。郊外には農村もあるし、魔物も滅多に出ない。労働力は喜ばれるし、今より安全に生きていけるさ。けどな、俺の答えはあんたもわかってるんじゃないのか。無駄に長く生きてないんだろ」
「確信はできないよ。ハンターに会ったのは初めてだからね」
「ちょいまち。まさか見た目どおりの年齢だとか抜かさないよな。狩人にあったことがない? いくらオリジナルが滅多にいないとはいえ、あんたもこの街に住んでんだろ?」
街には何故か魔物と、それを狩ることを生業としたハンターが吹き溜まっている。
安楽な暮らしを望むなら、少年が言うように、郊外に住めばいいのに、わざわざ命の保障のない仕事を選ぶものは多い。
そして何故か、魔物も街を出ようとしない。彼が生まれる前からずっとそうだったから、その理由を考えたことはなかった。
オリジナルの吸血鬼を倒したハンターの話などは聞いたことはなかったが、その凄絶な遭遇譚は何度も聞かされた覚えがある。
一度もハンターに会ったことがない魔物がいるとは、彼には信じられなかった。
「きみは、僕を狩らなくてもいいのかな―――狩られてあげるわけにはいかないんだけど」
「あんたなぁ。じゃあいうなよ」
脱力して、彼はポケットから無糖の缶コーヒーを取り出し、一気に呷った。
「だいたい、なんのためにあんたを狩らなきゃならないのさ」
「いや、君の仕事じゃないの」
青年も困っている。
なにもかもどうでもよさそうで、自分を守る気もないようだったが、最初から敵意を見せない少年の存在は、すべてに無関心な青年ですら困惑させたらしい。
ましてや少年は、魔物を狩るハンターなのだ。
「仕事だから、報酬が得られないことはしないんだよ。懸賞がついてない吸血鬼を狩って、誰が俺に金をくれるんだよ。だいいち、いくら弱ってるからって、あんたを狩れると思うほど、俺もうぬぼれちゃいないぜ」
「それもそうだね」
こともなく青年はごく普通の口調で言った。
そこには自負も自信もなにもなく、ただの事実を告げる声だった。
「ああ、無駄なケンカはしない主義なんだ。いろいろ減るだろ」
勝てないケンカはしないのが主義の少年だった。
男はクスクスと笑った。
楽しそうに。
それは何故か悲しく見える姿だった。
ジャケットのポケットからもう一本缶コーヒーを取り出すと、同じように一息で飲み干した。
手にしているのはやはり無糖コーヒーだ。
彼はブラックしか飲まない。
甘いものが病的に嫌いなのだ。
理由は少年自身にもわからなかった。
長い沈黙の後、男は少しだけ悲しそうに少年を見上げた。
「そんなに暇なら、僕の話を聞く気はないかな。無理にとはいわないけど」
「暇だからいいけどさ。聞いて欲しいわけ?」
「できたらね。たぶん、誰かに聞いて欲しかったんだ。誰もわかってくれないかもしれないけど、それでも、誰かに言いたかった」
「俺もさ、あんたに聞きたいことがあったんだよ。それが聞きたくて声かけたんだ」
「なにかな」
「どうして……」
少年は言いよどんだが、心を決めて、その言葉を口にした。
「夜明けを前に、こんなところに座り込んでるんだ」
オリジナルもスレイブも日光に耐性を持たない。
特にオリジナルには、陽光は激烈な衝撃を与え、残酷な死を迎えるしかない。
ダンピールは紫外線への耐性をいくつかもつが、これらはスレイブの変化形でしかなく、オリジナルには太陽の光を浴びて無事に済むものは存在しない。
それは、死体の痕跡さえ残さない、絶対の消滅だ。
「……驚いた。うん。僕が聞いて欲しいのは、まさにその理由なんだよ」
「じゃあ、ぜひ聞きたいね」
空き缶をフェンスごしに放り投げると、咎めるような視線に出会った。
汚れきった街には珍しいというより、異常なマナーの持ち主らしい。
この青年は、よほど育ちがよかったのだろう。
そう思いながら、ポケットの中からもう一本、缶コーヒーを取り出すと、また一気に飲み干した。
「あのさ、ちょっと下を見てろよ」
「下?」
フェンスに寄りかかった体勢のまま、彼は缶を後ろに投げた。
高い音が響いて、向かいのビルの横にある自販機の側のごみ箱に、彼が投げた空き缶が転がり落ちる。
「すごいね……」
「たいした芸じゃないけどな。俺はこれでも、マナーにうるさい男なんだよ」
照れて、ちょっと頬が熱くなった彼に、男はようやく笑顔を向ける。
「最後に会えたのが、きみでよかったよ」
「最後なのか。それってどうしてもなのか?」
「うん、もう決めたんだ。そう、理由を話すんだったね。きみも知ってると思うけど、僕たちは太陽の光にあたると消滅してしまう。理由はわからない。まだ世界に果てがなかった頃、僕たちの研究をしていた組織もあったけど、僕たちの細胞組成と遺伝子を解明する事はできなかった」
「昔の世界って、世界が丸いって御伽噺かよ」
この世界には見えない壁がある。
水面下のどこかを中心にした球形の世界は、外とうちで完全に閉じられ、内外の行き来はできなくなって久しい。
外の世界は滅んだのか、それとも自分たちの世界こそが、どこか異なる世界に閉じられてしまったのか、結果の出せない仮定は何もかも無意味だった。
壁を越えられたものは誰もいないので、彼にとって世界はどこまでも平らだ。
「もう、伝説になってしまったけれど、今だって丸いはずだよ。壁のせいで互いに行き来ができないし、電波も通らないから、この中だけが世界と呼ばれるようになったけどね」
「どんな、世界だったんだ。じじいの話は嘘くせえしさ」
「いろいろさ。僕のような魔物には、住みにくいところだったかもしれない。あまりに人が多すぎたから……人は魔物が闇に隠れていることすら忘れていた。こんなふうになるまではね」
「餌がいっぱいで、いいことじゃないの。ここじゃ、俺らの数が少ないから、餌の取り合いで大変だろ」
ここでは、人間の数の方が魔物より少ない。
そして、大抵の人間は魔物に抵抗するすべを持たないのだ。
その代わり、彼のように魔物を倒せる特殊能力者がごくまれに誕生する。
「魔物の中には、人間の恐ろしさを忘れてしまったものが多いけれど、世界で一番怖い生き物は、たぶん人間だよ」
「俺らみたいなのがいっぱいいたとか?」
「ほとんどはここの普通の人々と同じだよ。でも、数と言いうのは、本当に力になる。あの異変がなければ、魔物たちはきっと人間に滅ぼされていただろうね」
男の真剣な顔を見ても、魔物の脅威に日常的にさらされる現実を生きている彼には彼にはなんだか実感がわかない。
「あのさ、時間ないんじゃないの。俺が聞きたいのは、あんたが夜明けを待ってる理由なんだけど」
男は我にかえった様子で、少し黙ると、再び足を抱えてしゃがみこむ。
「僕はね、僕は……そう、僕は……」
透明な緑の瞳に、透明な液体が滲んでいる。
やっぱりキレイだなと少年は思った。
「好きなひとができたんだ」
「へえ、そっか」
「そう、昔の話じゃない。ほんとに短い間だったけど、僕は幸せで、でも、こんなにつらいこともなかったよ」
男の握り締めた指が震えている。
彼はポケットから缶コーヒーを取り出すと、今度はちびちびと味わった。
なんだか、ひどく苦い気がした。
「出会いは偶然だった。気まぐれでもあったね。信じられないものを見たんだ」
男は思い出し笑いをした。
「魔物に飛び掛っている女の子だった。信じられるかい? ミストブロスだったんだ。人間の、それも何の力もない女の子にどうかできる小物じゃない」
「それは、俺でも躊躇するな」
倒せないとは言わないが、不定形で、霧状にもスライム状にも変化して、獲物を溶かして吸収するタイプの魔物を始末するには、それ相応の準備が要る。
「なんというか、とっさだった。なんて莫迦な女なんだと思ったよ。でも、話を聞いたらもっと莫迦だった」
嬉しそうに男が笑う。
「友達を助けようとしてたんだっていうんだ。その場にはそのこしかいなかった。とっくに逃げてたんだよ。でも気がつかなかったんだっていってたよ。助けなきゃ助けなきゃ、それしか考えてなかったって」
「ミストブロス相手じゃ、あんたも無謀じゃないか」
強力な腕力と不死性だけで、特に魔力と呼べるようなものを持たない彼らにとっても、あまり得意な魔物ではないだろうに。
「そうかもしれないけど。ぼくもとっさだったからね。それで、まあ、お腹もすいてなかったし、置き去りにしようとしたら、彼女が僕の手をひいて、ありがとうといったんだ。魔物の僕にだよ」
「そりゃ、豪胆な女だな」
本気で感心する。
単に鈍いという可能性もあるが、それは口にしなかった。
「笑顔がすごく可愛かった。とくに美人じゃなかったけどね。それからはもう、僕は彼女に夢中で、恥も外聞もなくくどいたよ」
「うん。それは、くどかなきゃ、男じゃねえよ」
「彼女となら、永遠を生きられると思ったんだ。魔物を恐れない彼女となら、幸せになれると思ったんだよ。本当に僕は莫迦だった。なにも、なにもわかっていなかった。僕は人間を……よくわかっていなかったんだ」
だが、永遠を望む女は少なくない。
力を求める男も。
魔物の脅威が日常的なここでは、自ら望んで魔物になるものも多い。
「彼女は、人間でいたかったのか」
「いや、最後には僕といっしょに生きてくれると言ったよ。太陽が見れなくなるのは寂しいねと言った彼女に、その代わり、月光がきみを照らしてくれるよと言ったんだ」
「あんたは、オリジナルだろ」
含みを込めて言うと、青年は苦い笑みを浮かべた。
誇り高いオリジナルは、夜に生きることを誇りにし、けしてスレイブと交わったりはしない。
人との契りもまた、伝説ほどに数は限られる。
「そう、僕は父も母も吸血鬼で、太陽を知らなかった。僕は、本当になにひとつわかっていなかった」
「月は……照らしてくれなかったんだな」
少女はきっと太陽のような眩しい女の子だったのだろう。多分彼女も知らなかったのだ。夜の世界で生きることの意味を。
恋だけで、彼女は自分を育んだ陽の光と決別した。
そこに嘘はなかったのかもしれないが、闇が光を理解しないように、光も闇を理解しない。
少年たち人間にはわからない夜の美しさは、太陽を愛した少女の慰めにはならなかったのだろうか。
「……最初は幸せだった。でも、彼女はだんだん笑わなくなって、そのうち弱っていった。僕はいろいろな方法をためしたけど、少し前に、書き置きを残して消えてしまった」
「なんて、書いてあったんだ」
「太陽に会いに行きます」
「ああ……そうか」
長い時間をかければ、少女もまた夜の眷族として、闇の美しさを愛でただろう。
だが、彼女は太陽を愛したままの自分でいたかったのだ。
それは、少女だけの望みではなく、青年が愛したのが、太陽の下の自分だと気がついたからだろう。
「もう、永遠に、彼女に会えないんだ。永遠に。永遠に!永遠に!!」
「それが、理由なのか?」
それは、考えたよりもつまらない。
後追い自殺は、趣味じゃなかった。
少女はそれを望んだだろうか。少年にはわからなかった。
しかし、男は首を振った。
「彼女に会えないのは苦しいよ。でも、ここに来たのは、太陽を見るためなんだ。死ぬためじゃなく、彼女が最後に見たいと願ったものを、僕も見たいんだよ」
「それなら、わからなくもないな」
ならばやはり青年が愛したのは、見たことがない太陽だったのだ。
それを体現するような少女を、青年は愛した。
「よかった。きみならそういってくれるんじゃないかと思ったんだ」
「あ、明けてきた」
ビルの影から、太陽が昇ってくる。
朝の光が男の皮膚をちりちりと焼く匂いが漂う。
「「名前を最後に聞いていいかい」」
ふたりは、同時に声をかけた。
顔を見合わせて、吹きだした。
ふたり分の笑い声が、あたりに響き渡る。
「やっぱり、やめておこう」
「そうだな」
男の皮膚は、もうずるりと剥けて、きれいだった目も溶け崩れている。
それでも、まだ視力があるらしく、男はたるんだ目の端から涙を流す。
「これが、きみが見たかったもの……」
飲み終わった缶コーヒーを、彼は放り投げ、扉に向かって歩き出す。
「ああ、きれいだ」
ぱさっという乾いた音を最後に、男の気配は消えてしまった。
ポケットから、また、缶コーヒーを取り出して、彼は一度だけ振り返った。
「満足かい」
答えはもう、返らなかった。
「俺の名前はラキ、ラキシアだよ……」
やっぱり青年の名を聞いておけばよかったと思いながら、ラキは屋上を後にした。
青年が太陽にどんな言葉を捧げたのか、それだけが、いつまでも心に残った。
いつまでも。いつまでも。
2004/6/22 改稿
2005/2/20 再改稿
あとがき
ハンターラキシアの第一作目。亜積がはじめて書いたSSです。
このシリーズは一話完結で、連作ではありません。
時系列もばらばらの予定。
そして、ラキのシリーズは、今後発表される予定の封鎖世界群のひとつとなります。
封鎖世界はいくつもあり、その世界ごとに置かれた環境がまったく違うので、作品ごとのイメージもまったく異なります。
気長にお付き合いいただければ、他のシリーズにも出会えるかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。