はやく。はやく。
少女は森を少しでも早く抜けようとするようにと、もつれる足を引きずった。
いつの間にか、森は暗闇が支配する時間となり、太陽はずいぶん前に沈んだようだった。
生い茂った枝の隙間から、煌々と月明かりが照らしている。
普段は日の光よりも月明かりを好む彼女だったが、今はその明るい光を目にするだけで涙が出そうだった。
「こんなつもりじゃなかったの。ただ、ただ……」
涙ぐみながらも、痛む足を引きずる。
歩けないほどではないが、走ることはできない足が疎ましかった。
はやく。はやく。はやく。
少女は知らない。
自由に動かないはずの彼女の足取りが、踊りでも舞うように軽やかに見えることを。
それを知ったのは、ずいぶん……そう、ずいぶん後になってからの話だ。
森を抜けるには、絹の晴れ着は邪魔でしかない。
この村で絹の着物などを着ているのは彼女しかいない。
お前は特別な子供だからという村長の言葉を、少女は素直に信じていた。
その日の着物は、鮮やかな赤い振袖だった。
世話係の女は、ため息をついてよく似合うと褒めてくれた。
さすが神の愛子は、姿形も精霊のようだと、村人誰もが彼女を大切に愛しんだが、彼女には言われている意味がひとつも理解できてはいなかった。
それもまた神に愛された証なのだと、彼らは言った。
「どうしよう」
両手に抱えていた花束をぎゅっと抱きしめると、独特の強い芳香が鼻腔を刺激した。
「いい匂い」
今泣きそうだった気分も忘れて、少女は花の香りに酔った。
真紅の薔薇の花だ。
本当は、白い花が好きだった。それも、樹に咲くような小さな花がいい。
でも薔薇の花の匂いはとても好きだし、これは特別な花だった。
「イタっ!」
指の先から、血のしずくが盛り上がって流れた。
「なんで?」
子供のように歪めた顔が涙でくしゃくしゃになる。
少女は何度も鼻をすすった。
涙が出るのは痛かったせいじゃない。棘が刺さったからだ。
「とったのに、いっしょうけんめいとったのに。なんでとげがまだあるの?」
花をあげようと思ったのだ。
とても、大事な、大好きな人に、その人が一番好きな花をあげたいと。
真紅の薔薇は、その人がとても好きな花だった。
聞いたことはないけれど、少女はちゃんと知っていた。
村に一軒しかない洋館に咲く薔薇を、その人はよく見ていた。
もう誰も住んでいない荒れた館でも、花だけはきれいに咲いている。
触れることも、近づくこともなかったけれど、そのひとはいつも赤い薔薇を見つめていた。
だから、会おうと約束したその日に、両手一杯の真紅の薔薇の花をあげたかった。
約束をした刻限はずっと前に過ぎてしまった。
日が落ちる前に、そこにたどり着かなくてはならなかったのに、棘を抜く作業に気をとられて、すっかり時間を忘れてしまっていた。
時間という概念があまりない彼女にも、自分がひどく遅れたことはわかる。
「でも、けがしちゃやだったから。なんで、なんでこのはなとげなんてあるの!」
少女は何年たっても大人になることがない。
自分と同じ歳の女たちが、もう子供を産んでいることを、彼女は不思議にすら思っていなかった。
彼女は子供なのだ。
ずっと大人にならない。
そんな少女を、大好きなその人はなんでも許してくれる。
この村で少女を咎めるものなど誰もいなかったが、その人に許されることは、彼女にとって特別なことだった。
「嫌われたら、どうしよう……どうしよう」
誰もが優しくしてくれ、一度も冷たくされたことが少女だったが、その人に嫌われることだけは怖かった。
好意も、嫌悪も、少女にはよくわからない。
それでも、この世で一番特別な人だから、その人に嫌われることは、少女にとっての世界の終わりのようなものだ。
いつだって、その人は自分に優しいのに、なぜそんなにも不安になるのか、彼女にはわからない。
ただ、自分を好きになって欲しかった。
本当は、優しくして欲しいわけじゃなかった。
「いなかったら、どうしよう」
そんなはずはない。
約束を破るのはいつも少女で、そのひとはいつだって許してくれた。
だけど、今度こそ許してもらえないかもしれない。
今日は、言いたいことがあるのだ。
ずっと、ちゃんと言わないといけないと思っていたことがあった。
いつも忘れてしまうけど、とても大切で大事なこと。
あのひとに言わなくちゃいけないことが。
唐突に視界が明るくなった。
森を抜けたのだ。
木々に囲まれた大きな池が、月の光を反射して輝いている。
池の側に佇む人影が目に入り、少女は嬉しくなって駆け寄った。
(まっててくれたんだ。よかった)
「おそくなってごめんなさい。あのね、これ……」
少女の言葉が最後まで紡がれることはなかった
受け取られることもなく、赤い花びらは池に広がり、そのうち全部沈んでしまった。
誰も見ていたものはいない。
だから、そこで何があったのか、誰もしらない。
もう。ずいぶん昔の話である。
誰が、一番悪かったのだろう。
それは、誰も知らない。
いわなくちゃいけないことがあるの。