珊瑚の森



 神話の時代、人は天に浮かぶ兄星に住んでいた。

 傲慢ゆえに罪を犯した人々は、空を赤く染め、大地を不毛の荒野へ変えてしまった。

 神々に選ばれたものたちは兄星を捨て、弟星であるこの地上へ降り立った。

 神に選ばれた少数の民。それは精霊と語り合うものたち。

 彼らが四つの聖王家のはじまりである。

 東の山野に、黒い髪と琥珀の肌、赤い瞳を持つ、炎の精霊に愛されし煌砂の民を。

 中央の草原に、銀の髪と金褐色の肌、紫の瞳と背中に翼を持つ、風の精霊に愛されし風羅の民を。

 西北の大地に、金の髪と白磁の肌、緑の瞳を持つ、大地の精霊に愛されし双樹の民を。

 西南の島々に、緑の髪と海の泡の肌、水色の瞳を持つ、水の精霊に愛されし流露の民を。

 神々はサークレア大陸の選ばれた土地に、それぞれの始祖をいざなった。

 四つの王家は、精霊から力を借りて、数々の奇跡をおこなった。

 彼らは神々の子供であり、力なき民は彼らに仕える従者となって世界に散らばった。

 それは、遠い昔のおとぎ話。

 今もなお信じられている、神話の時代の物語。

 赤い星に残された人々の行く末を知る者は誰もいない。




   序章

 

 長い階段を、銀葉はつい先ほど婚礼を挙げたばかりの夫に導かれて、ゆっくりと下りていった。
 流露の城は、地上部分よりも、地下と海底に張り出した王族のみが出入りを許される奥の間と呼ばれる場所の方が広く作られている。
 どういった技なのか、海に沈んだ階段の壁は、外の景色を映し出して、青く揺らめいていた。
 豪奢な婚礼衣装ではなく、流露風の簡素な服は、肌に気持ちがよかった。
 簡素とはいっても、王とその妻たる双樹の女王が身につける衣服だ。そこらの安物であるわけがない。
 最高級の生地に、目立つ意匠はないが、裾に細かい神聖文字の縫い取りがしてある。
 流露の衣服は、海に入ることを前提に作られている。
 水の精霊の加護で、普通の人間には考えられないほど長時間水の中を踊るように泳ぐ流露の民には、丈夫で軽く水に濡れても体に張りつかない衣服は必需品だ。
 それは王家の人間も例外ではない。
 王家の行事のほとんどは、海の中の神殿で行われるからだ。
 銀葉は双樹の王族で、流露の民ではないが、流露王星樹の妻となったことで、水の精霊の加護を得た。
 精霊の加護は、それぞれの聖王家の血筋を引くもののみに与えられる特権だが、その誓いが真実である限りにおいて、王族の血を飲むことで友人や伴侶に精霊の加護を分け与えることができる。
 星樹と銀葉の結婚は、長らく続いた戦乱を治めるための政略的なものだが、戦乱の日々に築いた絆は誰になんと言われようと本当の絆だった。
 結婚が決まる前に互いの血を飲んでいたふたりは、伴侶である互いの聖王家の加護も受けている。
 政略結婚であろうと、互いに対する愛情が真実のものであることを、海底の神殿で証明したふたりは、祝福する民に笑顔でこたえた。
 敵対するふたつの国の王族に生まれた星樹と銀葉が出会い、惹かれあったのは、偶然と必然が絡み合った長い物語となる。
 長い戦乱の時代を終わらせたふたりの物語は、吟遊詩人たちによって世界中に広まった。
 ふたりは魔王を倒し、戦乱を終わらせた英雄だった。それゆえに、この結婚は両国の民衆に熱狂的に受け入れられた。
 多くの犠牲の上に築かれた平和だったが、生き残った人間には死者の願いを継ぐ義務があることをふたりはよく知っていた。
 だから自分たちだけが幸福になることに、罪悪感を感じたりはしない。
 幸せになることは、むしろ義務なのだ。
 ふたりが幸せであるということは、流露と双樹の民が幸せであるということなのだから。
 失った人たちを忘れることはできないけれど、残された人々は生き続けなくてはならない。
 戦後の混乱も治まった頃に、星樹と銀葉は双樹で婚礼を挙げた。
 長い戦乱の時代に突然現れた魔王を倒した英雄として、長く双樹に隷属していた流露が対等の対場になった証を示すために、なによりも魔王との決戦の日に誓ったふたりの想いを成就させるために。
 今日は双樹での結婚式から半年後の、流露での婚礼だった。
 銀葉はこの日を長い間待っていた。
 長らく行方不明だった流露の最後の王子と出会い、恋に落ちたのは偶然だったが、幼い頃から、流露城の地下の際奥にあるという部屋は、銀葉にとって特別な意味を持っていた。
 流露で王の妻となれば、その部屋に行くことができる。
 銀葉は期待と不安で、夫の手をぎゅっと握った。
 力を込めた手は、柔らかく握り返されて、ふたりはそっと微笑みあう。
 長い階段を下りて、最後の扉を開いた瞬間、銀葉は思わず息を呑んだ。
 そこに広がっているのは、幼い頃に聞いた夢の光景だった。

 幼い約束を思い出して、銀葉の記憶は過去へと旅立った。
 忘れることのできない、無邪気だった日々の終わりに向かって。