第3章



       1


 東の辺境であるユミス島に行くには、流露の王都から船で行くしかない。
 定期便も出ているが、さほど大きな船とはいえないものだ。
 ただ、年に一度の祭りの日のため、領主所有の大型船に、島を訪れる一般の人々も乗船することが許されているという話しを、カシンは顔見知りの傭兵から聞いた。
 祭りがちょうど四日後にはじまり九日後に終わることと、大型船以外にも、シェラを乗せる領主の船が明日王都を出ると聞いて、カシンはしばし考え込んだ。
「ってことは、祭りの席でシェラをお披露目でもするつもりか?」
 カシンがシェラの婚約を聞いてから二日がたっている。
 ユミスの領主の迎えとやらがくるのが明日だとすれば、祭りの本番には間に合う計算だ。
 漕手を多く乗せた大型の船で、ユミス島までは三日かかると聞いたが、領主の迎えの船はおそらく風使いを乗せた帆船だろう。ならば旅程は二日もかからない。
 風使いがいるのといないのとでは船足がまるで違うが、魔術師を雇うのに必要なのは金だけではない。
 魔術師は精霊を使役する生まれ持った才能がものをいう上に、一人前の術者に育て上げるまでには多額の資金が必要となる。数も少なく貴重で、それゆえに誇り高い。
 そんな魔術師を雇える人間は、多額の金銭を持っているのは当然として、それ以前に魔術師に命令できる格というものが必要となるらしいのはカシンも聞いたことがある。
 それほど深く魔術師を知っているわけではないが、母親のエトルもカシン自身も幼い頃に魔術師協会に誘われたことがあるので、最低限の知識ぐらいはあった。
 貴族や王族がどの程度の格とやらを持っているのか怪しいものだが、魔術師協会が聖王国の庇護下にあることを考えれば、ユミスの領主が風使いを雇っていることことはむしろ当然だろう。
 流露には水の精霊の加護を受けた人間が多いが、風の精霊の加護を受けた人間は少ない。
 風の聖王国風羅は五千年も前に失われ、残された民も故郷を出るのを厭ったからだと言われているが、本当のところはカシンも知らない。
 だからこそカシンにとっては幸運なことに、貴重な風使いを雇うことができない船主は、風の精霊の加護を受けた人間を喉から手が出るほど欲しがっているのだった。
「この外見なら説得力は満点だよな」
 銀の髪に紫の瞳と金褐色の肌は風羅王家の象徴だ。
 即ちそれは風の精霊の最大の加護を得ているのだという証でもある。
 逆にその貴重さから不審を抱かれる恐れもあるし、人の目を集めることは必至だ。
 と言っても自分の外見では人目を引かないようにすることは不可能なので、それは気迫でなんとかするしかない。
 一度は髪を染めたこともあったが、金褐色の肌と紫の瞳の組み合わせは変えようがないので、わかる人間にはわかってしまう。
 ならばその外見を利用したほうがいい。
 カシンは、商人たちが使う中型の帆船に目星をつけて、自分を風使い見習いとして売り込むことにした。
「さて、せいぜい高く売りつけてやるとするか」
 風の精霊が騒いでいるのが気にかかったが、カシンには予知の力はないので、先のことはその時になったら考えることにして、船着場に向かってカシンは歩き出した。





        2



 領主の迎えだという青年を見て、シェラはその外見にまず驚いた。
 背が非常に高い青年は、短く刈り込んだ若草色の髪に、流露の海と同じ澄んだ水色の瞳をしていた。
 シェラは流露の王族を見たことがない。しかし、緑の髪に水色の瞳を持つものが、聖王家流露の血を濃く受け継ぐものだということは、一般常識として知っている。
 つまり青年は流露の貴族で、迎えに来たということは、領主の親族の可能性が高いということをシェラは理解した。ただし理解しただけで、恐れ入ろうという気にはなれなかった。
 もともとシェラは気丈な娘だ。
 王族の血を引く領主からの求婚を断ることさえ考えつかなかった彼女ではあったが、その身分をありがたがったり、逆に嫌悪することは、シェラの性格ではありえないことだった。
 ただ自分は雷に当たったのだと、シェラは思っている。
 避けようがない事態というものが、誰にでも起こりうる。
 それが今回の領主の求婚だったのだとシェラは信じた。
 領主との結婚を望んだわけではなくても、断ることは考えられなかった。
「シェラシードと申します若様」
「東雲渚(しののめなぎさ)です。ユミス島の領主東雲水葵(しののめなぎ)の上の弟になります。どうか渚と呼んでください」
「渚様ですか」
「様はいりませんよ姉上」
「あ、姉上!?」
 これにはさすがにシェラも驚いた。
 領主の弟という身分の高さの上に、長命種であるということは、シェラよりもはるかに歳が上だと考えられる相手に、姉上と呼ばれるのははばかられる。
「そ、そんな、渚様! 姉上はやめてください! 普通に名前で呼んでください!」
「あなたが私を名前で呼んでくれたら、考えてもいいですよ」
 渚は花が溢れるように笑いかけてきた。
 これが聖王家に特有の美貌というやつかと、その笑顔にうっとりするより、幼馴染の整った顔立ちを思い出して、半ばうんざりしながら、シェラはその申し出を承知した。
「では、シェラシード。屋敷に着くまでの二日間の道中をよろしくお願いします」
「はあ、こちらこそよろしくお願い致します」
 変わった人だと少し呆れたシェラを、何がおかしいのか、渚はクスクスと笑いながら見返してきた。
(でも、いい人かもしれない。お兄様だという領主様もいい人ならいいのに)
 シェラが少し安堵していると、渚が小さくつぶやいたのが聞こえてきた。
「さて、これで間に合えばいいのだけどね」
「え?」
「あなたは私が守りますから、何も気にすることはありませんよ」
 何がどうとは言えない。ただ、シェラは、この航海が無事ではすまないような予感を始めて覚えた。










 シェラが渚と出会った頃、ユミス島の領主の館では、水葵(なぎ)の弟の熾鴉(しあ)が深刻な顔をして、短命種でありながら水葵の義理の息子の砕波(さいは)に告げた。
「やはり俺が行くべきだった」
「今更言っても仕方がないでしょう。ナギも子供じゃないんだから、ちゃんと花嫁を連れて戻ってきますよ」
「そんな問題じゃない。今、この時に、鍵を迎えるために、一人で行くなど正気の沙汰ではないと言ってるんだ」
「さて、今、この時、とやらの詳しい事情を、俺は知らされてませんからね」
 領主の弟の熾鴉(しあ)は、からかうように自分を見る壮年の男を、強く睨みつけた。
 視線の先の男は、並外れた長身に見合うだけの鍛えられた体躯に、黒い布を手足に巻きつけ、その上に同色の長衣を羽織っている。無造作に結ばれた帯代わりの布も黒く、腰に差した剣の鞘も黒く塗られている。いつも人をくったような笑みしか浮かべない男の顔には、右の目の上にかぶさるように走る傷がある。年齢に似合わない半白の黒髪は中途半端に長く、男の印象をぼかしていた。
 残された赤茶の左目を何度か瞬かせてから、男は今日の天気について語っているように、何気ない口調で言葉を続けた。
「先見の巫たちが告げた鍵が、その少女だというのはわかりましたが、そもそも何の鍵なのかを俺は知りません。俺がナギに拾われた理由が、いつか来るその日のためだということは聞いてますが、詳しい内容はちっとも教えてくれない。で、今更ながら聞きますけど、俺は何のためにここにいるんでしょうか?」
「馬鹿な! あのひとの懐刀と言われ、俺が生まれる前から東雲に仕えているお前が、魔王の復活を知らないだと?」
 衝撃的な事実を聞かされて、一瞬男は固まったように見えたが、のんびりとした調子のまま呟いた。
「へー復活するんですか、魔王」
 感心しているような男の声が耳に入った途端、ぷつんと何かが切れる音を聞いたような気がした。
 熱風が、熾鴉を中心に渦を巻いていく。
「事態の重要性を理解してるいるのか、砕刃(さいは)!」
 背中まで伸ばした見事な赤毛が、生き物のようにうねる。
 赤毛の髪は聖王家の色とは異なるが、唯一王族らしい水色をしていた瞳が、金色に光る。
 怒りとともに炎の精霊がざわめくのがわかったが、もう止めることができない。
 部屋の外に控えていた使用人たちの悲鳴が聞こえてきたのを、いっそ心地良くさえ思った。
 熱気のせいで、視界が揺らぐ。
「さて? 実感が無いことは確かですけど、まあそれなら、俺が魔族との戦闘のあれこれを仕込まれた理由に納得がいきます。ナギがやたらと魔術と法術に精通してることもね。魔王を倒すのは勇者しかいない。しかし勇者だけで魔族の全ては殲滅できない。ならば勇者の露払いが必要なのは当然ですから、つまり俺がそれなんでしょう?」
 砕刃の態度は変わらない。
 この男は火の精霊の加護を得ていない。熾鴉が操る熱気を感じないわけではないのに、平然と言葉を続けてみせる。
 それに新たな怒りを覚えながらも、熾鴉は少し微妙な表情を見せて男を見つめた。
 砕刃が何を勘違いしているか気がついたからだ。
「お前、その勇者があのひとだと思っているのか?」
「え、違うんですか? 話の流れから当然そうだと思ってましたけど」
 そうだったらいいと自分も思っていたと、半ば八つ当たり気味に熾鴉は吐き捨てた。
 その復活を知った先見の巫たちも、熾鴉の兄をいずれこの国を襲うだろう魔王と彼が戦う未来を導き出した。
 もっとも、魔王の復活を占った巫は全て息絶えた。
 だが――――
「あのひとは勇者じゃない」
 そんなはずはないのに、決定的な事実がそれを否定した。
「流水の剣は、あのひとを選ばなかった。正確に言えば、剣の正当な持ち主は未だ生まれていないということだ。魔王の復活から二七年たった今でもな」
「ということは、あなたも勇者ではないと?」
「俺はそもそも水の精霊の守護を持たない。流露貴族としてはありえない火の精霊の守護があるだけだ」
「でも、必ずしも勇者が流水の剣の所有者とはかぎらないんでしょ? 勇者とは聖王家の宝具の主のことを指すことが多いと俺は教わりましたよ。聖王家は四家。宝具も四つあるはずだ。ならそのどれかの主がいるはずでは?」
「そんなことはわかっている。だが、現在確認されている宝具は、流水の剣だけだ」
 双樹の聖杖は、聖王妃銀葉の妹姫とともに失われ、風羅の風の宝珠は、その王都ともに行方知れずである。残るは煌砂の紫炎刀だが、これもまた五千年前に確認されたのを最後に姿を消している。
 何故かは知らないが、勇者の未来を読むことは、どんな高位の巫にもできない。
 つまり主の未来が見れなければ、宝具の在処もわからないということだ。
 そして巫にその未来を予言された兄は、勇者ではあり得ない。
 魔王の復活を予見しながら、国が動かないのは、勇者が現れないからだと熾鴉は聞いている。
「ああ、だから鍵ですか……勇者が探せないなら、魔王と戦う未来をもった者を探すしか無いですからね。ちょうど二七年前に俺がナギに拾われたように、その少女もですか?」
 少し考えたようだが、砕刃はへらっと笑って言った。
「わざわざ花嫁だと偽って、ナギ本人が連れにいったんですから、重要人物ですよね」
 熾鴉は深く溜息をついた。
 怒りはもう消えていた。
 この男は、熾鴉の怒りを容易く引き出すくせに、その消火もなんの気負いもなく自然とやってみせる。
 それがたまらなく悔しかった。
「嘘じゃないぞ」
「何がです?」
「あの少女は、あのひとの未来の妻になる女性だ。そして同時に、魔王討伐の鍵となる存在でもある。だからあのひとは自ら迎えに行ったんだ。どんなに反対されてもな」
 しばらく沈黙していた砕刃は、我に返ると、腹を抱えて笑い出した。
「何がおかしい!」
「結局未来の嫁さんが気になって、自分で迎えに行っちゃったってことじゃないですか。深く考えているようで行き当たりばったりのナギらしい行動ですよ」
 一拍置くと、砕刃は、人が変わったように真摯な態度で、熾鴉に手を差し伸べた。
「それでは熾鴉様、行きましょうか」
 どこへとは熾鴉も問わなかった。やるべきことはわかっていたから。
 理解することと納得することは同じではないが、義務という言葉を無視出来るほど、彼は子供ではなかった。
 聖王家の成人の儀式まであと三年という、大人ではないが、もう子供ではいられない年齢の熾鴉は、過剰な重圧が人を成長させる要因であるということもわかっていた。
 重すぎる責任に潰されるようならそれまでだ。だが、あのひとは、熾鴉の兄であり、ユミス島の領主である水葵(なぎ)は、熾鴉ならやれると信じている。
 ならば兄の代役を完璧にこなしてみせる。
「流露の護りは俺が必ず担ってみせる」
 笑う砕刃には、もう腹は立たなかった。


4


 悪夢の山脈の黒い神殿の中央に、魔王は封印の結界によって閉じ込められていた。
 聖王星樹のかけた眠りの術は、五千年もの間、魔王を封じている。
 星樹に刺された傷は、いつの間にか治っていた。
 人形を作ったのは、今から二十七年前になるが、一瞬前のような気もする。
 操り人形を作って、神殿の外に出すことはできたが、魔王自身は未だに結界に封じられている。
 この結界を破れるものは、勇者のみ。
 王の指環を探せという人形への命令は、彼の人の子孫を探すと同時に、勇者を探すものだった。
 その勇者が流水の剣の主ならば、殺してくれと懇願するまでいたぶってやろうと強く思う自分がいるが、指環の持ち主である兄の子孫が紫炎刀に選ばれていたら、どうしたらいいのか。
 それは魔王にもわからない。
 復讐を願うのと同じくらい、兄の面影を宿しているかもしれない彼の人の子孫に会いたい。
 刹那でいい。
 顔を見るだけでかまわない。
 あの人を愛していた。
 双子の兄弟だという以上に深く熱く、自分でも制御しきれないほど兄に執着していた。
 多分兄は気づいていただろう。
 自分に向けられる愛情がどんなものなのかを。
 しかし、あの人には愛する女性がいた。
 風羅の第2王女にして、生まれる前からの兄の婚約者。
 風姫(かざき)という女性を憎んだことも羨んだこともない。
 あの人が心を寄せる相手がいてむしろ感謝した。
 一途に兄を愛した彼女は、魔王にとっては兄を幸せにしてくれる唯一の女性だと思えたからだ。
 あの人を失った風姫は、誰にも何も告げず姿を消した。
 王の指環を持って。
 それでいいと思っていた。
 王の指環は兄を愛した人が持つべきだからだ。
 彼女の背中の純白の翼の美しさを覚えている。
 滅多に見せることがなかった翼は、素直に綺麗だと思えた。
 兄を守ることができなかった彼を、誰も責めなかったことが、余計に辛かった。
 そしてあの人を殺した同族を殺し尽くしてやろうと誓った。
 復讐を望む狂気と兄の面影を求める愛の間(はざま)で、魔王は揺れ動いている。
 人形は王の指環の手がかりを見つけたようだが、まさか流露に渡っているとは思わなかった。
 流露の結界は強固なもので、魔族を受け入れるのは難しい。
 だが、白魔の結界破りに長(た)けるものなら、王の指環を持つものを結界から連れ出せる可能性は高い。
 今はただ、人形の成果を待つだけだ。
『会いたい』
 そう呟くと、魔王は仮初の眠りについた。











2013.6.3
2016/12/1改稿


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